戦争を止めるには、「愛にあふれる究極の心」だけでは十分ではなく、
ぞれを止める知性と感情を抑制する理性も必要である。
中東問題の専門家の大学教授が言っていた「お互いの生存権を認める」というだけでは争いは収まらない。
ではどうやったら、振り上げた拳を降ろさせることができるのか。
「愛にあふれる究極の心」があれば、戦争は起きない。
あるいは、止められるのではないかと思っていた。
しかし、アインシュタインとフロイトの手紙のやり取りを見ると話はそう簡単ではないようだ。
ところで「なぜ、私は幼い頃、大切なものを捨てあるいは壊したのか?」
幼い頃(1,2歳)から、『あんなに大切していたもの(おもちゃ)を便所に捨てていた、不思議だ』そう親から言われ育った。
1,2歳のころなので、本能にもっとも近い頃で、その時の気持ちは定かではないが、
おもちゃに飽きた私は、次に壊すか捨てようとするのだ。
同じことを繰り返していたことを考えると、それは、ある意味快感だったに違いない。
それを「破壊の欲」で生物の本能だという。
その生物にある2つの欲求のうちの1つ「憎悪と破壊の欲(死の欲動)」が強く表れたのだと。
生存本能や愛する者への絆だけでなく、破壊することは本能だということに驚く。
また、自分さえも死に追いやる「死の欲動」は「生の欲求」と表裏一体なのだフロイトは言っているから厄介だ。
かつて、私たち祖先の真核細胞は、環境さえ整えば永遠に生きる原核細胞、大腸菌のようなループ状を選ばず、
テロメア(染色体の末端にある構造)を選び、生殖すること(子孫を残すこと)の代償として「死」選んだことと関係はないのだろか。
理屈では、本能の先、魂の一段奥底に誰しも仏性(真我)(=「愛にあふれる究極の心」)がある、と
稲盛和夫さんは言っている。
ちなみに、※¹欲動とは衝動にかられ、どうしても○○したくなる行為のように思えるが、
欲動は:精神分析学で、人間を行動へと駆り立てる無意識の衝動。フロイトにおいては、生物学的な本能と精神的な衝動の境界概念としてとらえられ、当初は自己保存欲動と性欲動、後には生の欲動(エロス)と死の欲動(タナトス)とに分けて考えられた。
アインシュタインは、人間の心の中に平和にあらがう力が働き、
それを助長するのが「権力欲」と「権力に擦り寄るグループ」の欲だと指摘をして、
人間には本能的に「憎悪と破壊の欲」があるとして、フロイトに見解を求めた。
人間の心にある2つの傾向、「エロス的欲動」と「死の欲動」を見据えてフロイトはこう答える。
破壊欲動はどのような生物の中にも働いており、
生命を崩壊させ、生命のない物質に引き戻そうとします。
エロス的欲動が「生への欲動」をあらわすのなら、
破壊欲動は「死の欲動」と呼ぶことができます。
「死の欲動」が外の対象に向けられると、「破壊欲動」になるのです。
これは、矛先が自分に向くと「うつ」になり、他人に向くと「いじめ」になるのと同じ理屈だろう。
本能である憎悪と破壊願望は消し去れないが
「心と体」は、戦いへの憤りも覚える。
それは、知性と感情の制御で人間が育んできた「文化」で、
その文化の発展で戦争をなくす方向に人を動かしていくと期待できる。
そうフロイトは言っている。
そうだとすると、戦争を止めるには、「愛にあふれる究極の心」だけでは十分ではなく
それを止める知性と感情を抑制する理性も必要であるということになる。
ごく当たり前のような考察だか、「死の欲動」が「破壊の欲動」を生み
これは、人間の本能なのだということを学び、認識するというのが「戦争」の抑止になる。
そして、政治でもなく経済でもない『「文化」の発展が戦争をなくす方向に動かしてゆく』のだとすれば、
それは、文化を担う「人」と「人の絆」が原動力になるのであろう。