★ファブリツィオ・デ・アンドレ (vm) Fabrizio De André
本名ファブリツィオ・クリスティアーノ・デ・アンドレ(Fabrizio Cristiano De André) 1940年2月18日ジェノヴァ(Genova)生、1999年1月11日ミラノ没、自作自演歌手。
長男クリスティアーノ・デ・アンドレ(Cristiano De André)も歌手となり1985年サンレモ音楽祭新人部門に出場し4位になった以降、93年、03年にも出場している。再婚した妻は歌手のドリ・ゲッツィ(Dori Ghezzi) [当ブログ内検索で「サンレモの歌手たち ドリ・ゲッツィ」をご参照]
20世紀後半40年孤高のカンタウトゥーリとしての後年より高く評価されている。
活動期間:1961年 – 1998年
所属レコード会社:Karim, Bluebell Records, Liberty, Produttori Associati, Dischi Ricordi
サンレモ音楽祭出場0回:
サンレモ音楽祭出品1曲:1992年8位
カルムに在籍していたほとんどの期間ファビリツィオの芸名を使っていました。デ・アンドレの本名を使いたくなかったのでしょう。
1961年11月2枚目のシングル盤“Ballata Del Michè”が発売されます。この曲は60年夏、クレリア・ペトラッキ(Clelia Petracchi)と共に作詞し、初めて作曲した曲でした。B面“Ballata Dell'Eroe”は彼一人で作詞作曲したものでした。このB面の曲はルチアーノ・サルス監督(Luciano Salce)、音楽エンニオ・モリコーネの映画「La Cucagna」に使われ、翌62年表裏逆にしたヴァージョンでピクチャー・スリーブも映画用に変えられています。
KN-103 (1961年11月 Karim – Durium) Ballata Del Michè /Ballata Dell'Eroe [come Fabrizio]
KN-103 (1962年 Karim – Durium) Ballata Dell'Eroe/Ballata Del Michè [come Fabrizio]
翌62年、後にサンレモ音楽祭出場歌手となる息子クリスティアーノが生まれました。22歳のファブリツィオは結婚と息子の誕生後、家族の養うために定まった仕事を持つ必要性に迫られ、父親が所有する私立学校で副校長に就任しました。
しかし歌手を止めることなく年1,2枚のシングル盤を出していきます。63年5月2日彼はTV出演デビューをしました。ヴィト・モリナーリ(Vito Molinari)がディレクターでフランスのリーヌ・ルノー(Line Renaud)が出演した番組「ランデヴー(Rendez-Vous)」で“Il Fannullone”を歌いました。
KN-177 (1963年 Karim – Durium) Il Fannullone/Carlo Martello Ritorna Dalla Battaglia Di Poitiers [come Fabrizio]
父の学校で働きだした翌年頃から、内向的、文学的音楽の自作自演歌手としての地位を固めていき、歴史的シャンソン自作自演歌手の雰囲気と簡素で詩的な比喩、イタリアと地中海音楽の伝統を扱い、社会問題、世相を作品に凝縮しつつも、簡単で民衆が理解できる言葉で表現する曲作りに磨きをかけました。
4枚目のシングル盤は表が彼自身の作詞作曲、裏面は2枚目で使われた“Ballata Del Michè”でした。ジャケットはカラーのお仕着せスリーブと2枚目初版のモノクロお仕着せスリーブの2種類あります。裏面のカリムの所在地がジェノヴァ、ミラノ、ローマの3種類あるそうで、これがカリムと言う会社の混とんとした状況を表しています。
KN-184 (1963年6月 Karim – RCC) Il Testamento/La Ballata Del Michè [come Fabrizio]
64年になると日本の国内盤で紹介された曲が出てきます。ライヴ盤「ファブリッツィオ・デ・アンドレ+P.F.M.イン・コンチェルト」で”ピエロの戦い”として初めて紹介され、今では” ピエロの戦争”といわれている曲がシングル盤になりました。カリムからその後2度再発盤が発売されます。
KN-194 (1964年9月 Karim – Vedette) La Guerra Di Piero (ピエロの戦い)/La Ballata Dell'Eroe [come Fabrizio]
KN-194 (1966年 Karim – Pulvirenti) La Guerra Di Piero (ピエロの戦い)/La Ballata Dell'Eroe [come Fabrizio]
KN-194 (1969年 Karim – Pulvirenti) La Guerra Di Piero (ピエロの戦い)/La Ballata Dell'Eroe [come Fabrizio]
KN-194
64年彼に注目が集まる曲がレコード化されます。62年に作ったとされる“マリネッラの歌(La Canzone Di Marinella)”が“Valzer Per Un Amore”のB面に収められました。3年後ミーナか“マリネッラの歌”を取り上げ、カヴァーしたことによりファブリツィオが表舞台にっ引っ張り出されました。
ミーナは多くのカンタウトゥーリの曲を歌い、コラボしました。“マリネッラの歌”はそれ以上の意味を持っていました。なんとなく超人気歌手ミーナがファブリッツィオの曲をとり上げ、有名になったという話で終わってしまいますが、ミーナがとり上げたアルバムは彼女が自社PDUを起ち上げ、その第一作であったことに意味があります。
デ・アンドレはブルジョア階級の出身ながら、アナーキストで社会的弱者の事を歌うイタリアにとっては都合の悪い存在でした。その歌手の曲を自分の将来の命運をかける第一作目に入れる事は、並大抵でない思いであったことでしょう。
69年ミーナの歌う”マリネラの歌”を初めて聞いた私も感動しましたし、こんな曲を作るカンタウトゥーリがいることを知りました。この年ファブリッツィオ・デ・アンドレのアルバム「Fabrizio De Andre' vol. III」はイタリアの年間ナンバー・ワン・ベスト・セラー・アルバムになっていました。詳しい話は69年の事を書くときに致しましょう。
KN-204 (1964年 Karim – Vedette) Valzer Per Un Amore/La Canzone Di Marinella (マリネッラの歌) [come Fabrizio]
KN-206 (1965年 Karim – Pulvirenti) Per I Tuoi Larghi Occhi/Fila La Lana
65年に出た”Per I Tuoi Larghi Occhi”と”Fila La Lana”のクレジットは彼が関わっているのですが、ヴァリエーションがあるようです。”Fila La Lana”は15世紀頃の歌が原曲のようです。
65年カリムの女性歌手ジュリアナ・ミラン(Giuliana Milan)のシングル盤のB面曲” Stringendomi Le Mani”を作りました。彼の初期に他の歌手が歌う曲を作ったという例は見つけられませんでした。同じようなカンタウトゥーリがいます。
セルジョ・エンドリゴ(Sergio Endrigo)も自分の作った曲を歌われるのは嫌がりませんが、他の歌手に曲を提供する事には大きな抵抗を示したようです。それが嫌でRCAイタリアーナと再契約せずにチェトラに移籍しています。
”La Città Vecchia”には前作と同様作曲家のクレジットにエリオ・モンティ(Elio Monti)がある版とない版がみられます。また検閲により一部歌詞が変えられたヴァージョンもあります。彼の場合は「不穏当」な内容とされ変更させられる場合もありますが、彼自身が歌の内容を昇華して変更される場合も多くみられるようです。ここでは目に見えるピクチャー・スリーブの変更などはフォローしていますが、歌詞内容の変更まで追い切れていません。
KN-209 (1965年11月Karim – Pulvirenti) La Città Vecchia/Delitto di Paese
KN-214 (1966年3月 Karim – Pulvirenti) La Canzone Dell'Amore Perduto/La Ballata Dell'Amore Cieco (O Della Vanità)
66年3月のシングル盤A面の”La Canzone Dell'Amore Perduto”はドイツのゲオルク・フィリップ・テレマン(Georg Philipp Telemann)が書いた”トランペット協奏曲(Concerto in Re Maggiore Per Tromba, Archi E Continuo)”に触発されて書いた曲とも言われています。B面はファブリツィオが傾倒していたフランスの自作自演歌手ジョルジュ・ブラッサンス(Georges Brassens)の曲をイタリア語に訳して歌っています。
66年4月に出たシングル盤”Geordie”は初期のファブリッツィオとしては非常に珍しく女性とデュエットした曲です。一緒に歌ったのはモーリン・リックス(Maureen Rix)というファブリッツィオと知り合いの英語教師で、”Geordie”を彼に教え、イタリア語の歌詞で歌うときにデ・アンドレがデュエットしてほしいと頼み、実現したようです。
KN-215 (1966年4月 Karim – Pulvirenti) Geordie/Amore Che Vieni Amore Che Vai [Maureen Rix E Fabrizio De André/Fabrizio] ※ジャケット画像は顔写真画像をご参照
こうして曲がりなりにもシングル盤を出していっているファビリツィオですが、カリムは66年に破産し閉鎖されます。カリムはマイナー・レーベルながら62年にはオリエッタ・ベルティ (Orietta Berti) やメモ・レミージ (Memo Remigi)もデビューさせ順調に実績を積んでいきました。
しかし設立からジェノヴァ、ミラノ、ローマの面々が名を連ね、一つ事を決めるのも大騒動になったのが目に見えるようでした。ジャケット裏の会社所在地もジェノヴァだったりミラノやローマなどバラバラで、混乱ぶりがうかがえます。しかも62年にはジェノヴァ派は地元でサブ・レーベルのアッソロ(La Assolo)を作り、人気歌手ミとなるミケーレ(Michele)のレコードを出しています。
66年カリムの経営状況がますます悪化し、株式会社の本部はガエターノ・プルヴィレンティ(Gaetano Pulvirenti)の持つRRCなどが傘下にある大手レコード流通会社プルヴィレンティの中に移転されました。
こうしてカリムの原盤はプルヴィレンティが支配し、カリム解散後ファブリッツィオ・デ・アンドレのレコードはRRCから発売されることとなります。
ファブリツィオ・デ・アンドレ 3は次回に続きます













