★ダニエラ (vf) Daniela
本名ダニエラ・メルラ(Daniela Merla) 1955年10月18日ミラノの北東40kmにある都市ベルガモ生、歌手。
活動期間:?
所属レコード会社:OSI
サンレモ音楽祭出場1回:1975年参加
地方ののど自慢大会から出てきた新人で、1975年サンレモ音楽祭に出場が決まっていたマリーサ・フリジェリオ(Marisa Frigerio)が出場取止めとなり、急きょ代役として選ばれる幸運をつかみました。
しかし参加費用は彼女の母親が支払う羽目となり、ダニエラの唯一のキャリアはサンレモ音楽祭参加歌手でした。その後の消息はつかめませんでした。
OSI-0005 (1975年2月 OSI – CBS Sugar) Dolce Abitudine (甘い習慣)/ Piccolo Bambino Caro
OSI-0005
ダニエラの国内盤はありません、以上です。
★クリス&サラトガ(compl) Kriss and Saratoga
1971年にトスカーナで結成されたヴォーカル&インスツルメンタル・バンド。
活動期間:1971 – 1975
レコード会社:Fonola、OSI
サンレモ音楽祭出場1回:1975年参加
サンレモ音楽祭出場時のメンバー構成
・クリス (Kriss)、本名フェルッチョ・フラノスキーニ(Ferruccio Franceschini) ヴォーカル
・ベッペ・カッシーニ(Beppe Cascini)、本名ジュゼッペ・カッシーニ(Giuseppe Cascini) ドラムス
・ナンド・ベニーニ(Nando Benigni) キー・ボード
・ブルーノ・グッビーニ (Bruno Gubbiani)
・ジャンニ・ランキーニ (Gianni Ranchini)
1971年フィレンツェの南東50kmの山中にある小都市トスカーナ州アレッツォ(Arezzo)で5人の若者がクリス&スメラルディ(Kriss E Gli Smeraldi)というバンドを結成しました。スメラルドはエメラルドの事です。
結成時クリス&スメラルディのメンバー構成
・フェルッチョ・フラノスキーニ (FerruccioFranceschini) ヴォーカル
・ナンド・ベニーニ(Nando Benigni) キー・ボード
・ジュゼッペ・カッシーニ(Giuseppe Cascini) ドラムス
・ジャンニ・ランキーニ (Gianni Ranchini)
・ブルーノ・グッビーニ (Bruno Gubbiani)
リーダーのフェルッチョ・フラノスキーニは痩せてキリストの様なのでクリスト。仇名は骸骨。メンバーはスメラルディからサラトガまでメンバー交代はありませんでしたが、バンド名だけは変わっていきました。
彼らはミラノ北西40kmにある山中の小都市アローナ(Arona)に1929年設立され、現在も活動を続けているイタリア屈指の老舗レコード会社フォノテクニカ・フォノーラ(Fonotecnica- Fonola)のフォノーラからデビューしました。
この会社はダンス音楽、民謡、地元の歌手のレコードを作るために設立されましたが、60年代にはサンレモ音楽祭出場曲やヒット曲のカヴァーを出して業績を上げました。クリス&スメラルディもそのひとつでした。
71年クリス&スメラルディで最初のシングルはジョージ・ハリスン(GeorgeHarrison)の“マイ・スウィート・ロード”と、後にミドル・オブ・ザ・ロード (MiddleOf The Road)が“チピ・チピ天国”として大ヒットさせるラリー・ストット (Lally Stott)の“僕はチャーピ・チープ”をカヴァーしました。
SP-8014 (1971年 Fonola –Fonotecnica) My sweet Lord (マイ・スウィート・ロード)/Chirpy Chirpy Cheep Cheep (僕はチャーピ・チープ (チピ・チピ天国)) [comeKriss e gli Smeraldi]
SP-8014
NP-2142
NP-2142
NP-2142 (1973年 Fonola –Fonotecnica) Sylvia's Mother (シルビアズ・マザー) [/L'Amore MiAiuterà (Starman) (スターマン) [come Kriss e il Gruppo 2000]
73年2枚目でバンド名をクリス&グルッポ2000と変えて、ロック・バンドらしくアメリカのドクター・フック&メディスン・ショー(Dr.Hook& Medicine Show)の“シルビアズ・マザー”とデヴィッド・ボウイ(David Bowie)の“スターマン”をカヴァーしています。
グルッポ2000名義でもう1枚、イ・リベルリ (IRibelli)が67年カンタジーロのジローネCで歌った“望みなき思い”とブリティッシュ・ロック・バンド、ユーライア・ヒープ(UriahHeep)の“サンライズ”をカヴァーしています。
NP-2143 (1973年 Fonola– Fonotecnica) Pugni chiusi (望みなき思い)/Sunrise in you (サンライズ) [comeKriss e il Gruppo 2000]
NP-2143
OSI-0003
OSI-0003
OSI-0003 (1975年2月 OSI – CBS Sugar)Piccolo Bambino Caro (小さな可愛い子)/Evadere
1年間のブランクの後、三度バンド名をクリス&サラトガに変えて75年サンレモ音楽祭に出場します。出場決定の経過は分かりませんが、彼らもレコード会社が決まっていなかったのでOSIからレコードが出ます。 これを最後に彼らの名前は出なくなりました。
クリス & サラトガの国内盤はありません、以上です。
★アントネラ・ベラン (vf) Antonella Bellan
1959年4月3日トリノ生。歌手、女優、テレビ司会者、著述家、脚本家、映画プロデューサー
活動期間: 1970年 – 現在
所属レコード会社:Excelsius (Fonit Cetra)、 LasVegas (Sidet)、 Cetra、 PBG Italiana、 F1 Team
サンレモ音楽祭出場1回:1975年参加
1971年本格的に歌とピアノのレッスンを始めて、同年トリノで開催されたのど自慢「黄金の仮面」でフランコ・トッツィ(Franco Tozzi)やウンベルト・トッツィ((Umberto Tozzi)を見出したピエル・ベニート・グレコ(Pier Benito Greco)が作った“Fiori D'Arancio”を歌い優勝し、フィアット500の賞品を貰いましたが、僅か12月才アントネラは運転することが出来ませんでした。
72年ジリオラ・チンクェッティ(Gigliola Cinquetti)の“涙の小道(Qui Comando Io)”を採譜・構成した元アコーディオン奏者で作曲家・音楽プロデューサーのマリオ・ピオヴァーノ(Mario Piovano)に師事し、ピオヴァーノは彼女の優秀さを認めます。
73年トリノのフォニット・チェトラでピエロール・ベニート・グレコが作った曲を吹込み、“GrandeTorino”はサッカーの応援歌となりました。(ユヴェントスのサポーターソングか?)
EXS-0467 (1973年 Excelsius – Fonit Cetra) Grande Torino/Fiori D'Arancio [Antonella Bellan/PietroBenito Greco]
EXS-0467
500-1072
500-1072
500-1072 (1975年2月 Las Vegas (Sidet) – PHONOGRAM) Lettera(手紙)/Il Regno D'Amore
74年カストロカーロ新人コンテストに出場し、優勝はリリアナ・サヴォカ(Liliana Savoca)とデニセ&グロリア・カローレ(Denise e Gloria Calore)でしたが、何故か優勝歌手が75年サンレモ音楽祭に出ず、ラスベガス(シデット)からアントネラ・ベランが出場しました。歌ったのは“手紙”で事前検閲をされて一部歌詞の変更もあり、ベラン自身も意に添わぬ曲でした。おまけに予選敗退で彼女にとってサンレモ音楽祭には良い印象を残していませんでした。
サンレモ音楽祭後フォニット・チェトラと5年契約を結びます。16才になりピエロ・パセロ(Piero Pasero)に師事し、本格的に古典と現代歌唱にピアノを習得し、演技の勉強もしています。
フランコ・チェッリ(Franco Cerri)のTVヴァラエティ番組「Chitarra E Fagotto」のテーマソング“ChitarraE Blue Jean”を歌い、チェトラからシングル盤を出しました。B面は多分フランスのP.フランソワーズ(P. François)が作った曲のカヴァーのようですが元曲は分かっていません。
若いアントネラがレコード会社と長期契約を結ぶことに関して周囲は反対のようでした。結果はチェトラからシングル盤を1枚出しただけで終わったようです。
SP-1604 (1975年 Cetra – Fonit Cetra) Chitarra E Blue Jeans/Libero Di Andare
SP-1604
NP-003
NP-003
NP-003 (1979年 PBG Italiana – P.B.G.) Il Sole Nuovo/Il SoleNuovo (Base In Si Bemolle)
78年からバレエ、ジャズ・ダンス、モダン・ダンス、アフロ・キューバ・ダンスのレッスンを始め90年まで続けました。79年正体不明のシングル盤が出ています。如何にも私製盤のようです。P.B.G.はピエル・ベニート・グレコ(PierBenito Greco)でないでしょうか?
80年代から90年代にかけてベランは舞台女優をしていました。フランスのジャン・ジュネ(Jean Genet)の原作をアルベルト・ネグリ(Alberto Negro)が演出した「AspettoSul Muro La Rivelazione Di Qualche Segreto Terribile」に出演したり、劇中で彼女のために書かれた曲を歌っていました。また「Invidia」ではジャニス・ジョプリン(Janis Joplin)の“ベンツが欲しい(MercedesBenz)”を劇中で歌っています。
83年RAIでアルベルト・キャンタレット(Alberto Chiantaretto)とダニエレ・ピァンチョーラ・ラヴォーラ (Daniele Pianciola.Lavora)が製作・監督した16mm映画「VENERDÌ SERA, LUNEDÌ MATTINA」に出演しました。同年アメリカのロバート・シェクリイ(RobertSheckley)の小説「Seventh Victim」に触発されアルベルト・ネグリが作った演劇ミュージカル「FotogrammetriaCriminale」でベランはコオリナ(Koorina)役を演じ、その後コオリナを芸名に使うことがありました。
FotogrammetriaCriminale
85年80年代のベランの代表作となる「Incantesimo Di Donna – Progetto Mata Hari」に出演します。
また芸名クリスティーネ(Christine)でフィノッティ(Franco Finotti)が作った曲”Free’N’Easy”のレコードを出しています。
P-7359 (1985年F1 Team – Panarecord) Free 'NEasy (Vocal Version)/Free 'N Easy (Instrumental Version) [come Christine]
P-7359
DM-9323
DM-9323
DM-9323 (1985年F1 Team – Panarecord) 12”MaxiFree 'N Easy (Vocal Version)/Free 'N Easy (Instrumental Version) [comeChristine]
87年「Violette Noziere」、89~90年「Estreme Conseguenze」等に出演し、ベランは演出家ネグリとの仕事で女優のキャリアを積みレコードを出さない歌手となりました。
アントネラ・ベランの国内盤はありません、以上です。