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★ペピーノ・ガリアルディ (vm) Peppino Gagliardi
本名ジュゼッペ・ガリアルディ(GIUSEPPE GAG;LIARDI)、1940年5月25日ナポリ生、自作自演歌手。
LPJ- 5048
1965年初めてのサンレモ音楽祭に出場しました。初出場の緊張のあまり、舞台袖に戻り気を失ったという話も残っています。その後、第2回夏のディスクフェスティヴァルに出場、“愛してるんだ君だけを(INNAMORARMI DI TE)”を歌い8位入賞をします。参加曲が44曲ですから、大変良い成績だったことがお分かりのことでしょう。
J-20302X45 (1965年 JOLLY - SAAR) Innamorarmi di te (愛してるんだ君だけを)/Grazie caldo sole
J-20302X45
J-20332X45
J-20332X45
J-20332X45 (1965年9月17日JOLLY - SAAR) Un atto di dolore/Ho il coraggio di amarti
9月にもう1枚シングル盤(65年は3枚のシングル)と初めてのLPを1枚(ジャケットは顔写真画像をご参照)を出しました。
LPJ- 5048 (1965年Jolly - SAAR) LP Peppino Gagliardi
A面はジーン・コロンネッロ(GENE COLONELLO)の作曲、B面はガエターノ・アメンドーラ(GAETANO AMENDOLA)の現代ナポリターナです。
J-20347 X45 (1966年JOLLY - SAAR) Mezzojuorno/Nu poco 'e sole
J-20347 X45
J-20348×45
J-20348×45
J-20348 X45 (1966年JOLLY - SAAR) Se tu non fossi qui/Devi sorridermi
66年夏のディスク・フェスティヴァル参加曲の“Voglio sapere”と“Finalmente”とも“ガラスの部屋”の作曲家アメンドーラとガリアルディ自身の曲です。
J-20356 X45 (1966年JOLLY - SAAR) Voglio sapere/Finalmente
J-20356 X45
J-20388 X45
J-20388 X45
J-20388 X45 (1966年JOLLY - SAAR) Sole malato (病んだ太陽)/Scriveme (手紙をおくれ)
2曲とも66年第14回ナポリ音楽祭の入賞曲で、“病んだ太陽”はドメニコ・モドゥーニョ(DOMENICO MODUGNO)が作り、マリオ・アッバーテ(MARIO ABBATE)が、“手紙をおくれ”はセルジョ・ブルーニ(SERGIO BRUNI)というナポリの大物たちがパートナーでした。
ペピーノ・ガリアルディはこのナポリ音楽祭の曲を最後にSAARから映画音楽専門であったCAMが作ったポップス・ミュージック・レーベルD.E.T.に移籍します。
ペピーノ・ガリアルディの国内盤
HIT-1327 (1966年5月 SEVEN SEAS -キング) 若さがあるさ (COSI' COME VIENE)/愛のひきしお (SE TU NON FOSSI QUI) レモ・ジェルマ-ニ (REMO GERMANI (vm))/ペピーノ・ガリアルディ
HIT-1327
SLX3-1001(M)
SLX3-1001(M)
SLX3-1001(M) (1966年10月10日 SEVEN SEAS -キング) 30cm 3LP Box豪華版サン・レモのすべて (TUTTE LE CANZONI DI SAN REMO)
3-14. 愛のひきしお (SE TU NON FOSSI QUI)
3-14. 愛のひきしお (SE TU NON FOSSI QUI)
1968年サンレモ音楽祭のあとにペピーノ・ガリアルディ3が続きます。
★トリオ・ロス・パラグァヨス(trio=pa) Los Paraguayos
ロス・パラグアイはパラグアイ出身の音楽グループです。1950 年の結成され、南アメリカ、メキシコの多くの曲や歌をパラガイのハープを使い演奏しています。表記は時代によりTrio Los Paraguayosやリーダーの名前をフュウーチャーしたLuis Alberto del Paraná y Los Paraguayosを使っていました。
ルイス・アルベルト・デル・パラナ(Luis Alberto del Paraná,)、ディグノ・ガルシア(Digno García)、アウグスティン・バルボサ(Agustín Barboza)のでしたが、リーダーのデル・・パラナはイギリスで亡くなりました。
1955年、ベルギーでパラガヨスは弟のレイナルド・メサ(Reynaldo Meza)、ハープ演奏者のホセ・デ・ロス・サントス・ゴンザレス(José de los Santos González)、ギタリストのアンヘル・パト・ガルシア(Angel Pato Garcia)とルビト・メディナ(Rubito Medina)の構成でクァルテットとして再結成をし名前もルイス・アルベルト・デル・パラナとロス・パラガヨス(Luis Alberto del Paraná y Los Paraguayos)に変更しました。
1966年サンレモ音楽祭にルチアーノ・トメイ(Luciano Tomei)のパートナーとして“砂浜の想い出(Quando vado sulla riva)”を歌いましたが、入賞しませんでした。
彼らはフィリップスで500曲以上の録音を残し、75カ国で2000万枚以上のレコードを売り上げました。ルーマニア、ロシア、日本、米国、アフリカ、中東、ヨーロッパ各国を述べ100万マイルのツアーを行いました。
1974年ルイス・アルベルト・デル・パラナの死後は、弟のレイナルド・メサがリーダーでロス・パラガヨスを引き継ぎました。
トリオ・ロス・パラグァヨスの(イタリア関係)国内盤はありません
★ザ・レネゲイズ (compl=e) The Renegades
英国のバーミンガムで結成されたバンドで、拠点をフィンランドに移し1960年代後半まで北欧で演奏活動をしましたが、その後解散をしました。
メンバーは
キム・ブラウン(Kim Brown) - ギター、ヴォーカル (1964-1971) 1945~2011年10月
イアン・マレット(Ian Mallet) - ベース (1964-1971)
デニス・ギブソン(Denys Gibson)- ギター (1964-1967)
グラハム・ジョンソン(Graham Johnson) - batteria (1964-1971)
途中交代メンバー
ジョー・ダネット(Joe Dunnett) - ギター (1967-1971)
ミック・ウェブレイ(Mick Webley) - ギター (1971)
1960年代初頭イギリスのバーミングハムでロック・ン・ロール・バンドとして結成され、63年頃からリズム&ブルースの影響を受け過激な演奏をするようになります。アメリカの南北戦争当時の北軍の軍服をユニフォームにして演奏し、64年10月にフィンランドに拠点を移しました。
フィンランドで“Cadillac”, ”七つの水仙(Seven Daffodils)”,“Matelot”などのレコードを出し北欧諸国、オランダで人気を得ました。66年サンレモ音楽祭でエキペ84(Equipe 84)のパートナーとして“君を求めて(Un giorno tu mi cercherai)”を歌いましたが、入賞できませんでした。しかしビル・ヘイリーと彼のコメッツのカヴァー曲“サ-ティーン・ウーメン(THIRTEEN WOMAN)”がヒットし第二の“キャデラック”ブランドとして彼らに貢献しました。
71年以降彼らの音信は途絶えます。77年ころからヴォーカルでリーダーのキム・ブラウンとベースのイアン・マレットが中心となり、イタリアやドイツのメンバーを集めキム&キャデラックス(Kim & The Cadillacs)としてエルヴィス・プレスリーの物マネを得意とするバンド活動を始め、1979年第29回サンレモ音楽祭に“青空の稲妻(C'ERA UN'ATMOSFERA)”を歌い遂に入賞を果たしました。サンレモ音楽祭初出場から13年目の快挙でした。
因みにバンド名キャデラックスはレネゲイズの初期のヒット曲“キャデラック”から取ったそうです。
レネゲイズの国内盤はありませんが、その後のキム&キャデラックスの国内盤は
GP- 683 (1979年5月SEVEN SEAS -キング) 30cm LP第29回サン・レモ音楽祭 (FESTIVAL DI SAN REMO 1979)
4.青空の稲妻 (C'ERA UN'ATMOSFERA)