梅雨入り→雨→チンクェッティと三題話としても、ちょっとコジツケがましいスタートになりますが、5月に書いたセルジョ・エンドリゴであの長さになり、チンクェッティの場合は、固定ファンの方の詳しいサイトもあり、いい加減なことが出来ないので大変です。
これまでも“ジリオラ・チンクェッティの「愛は限りなく」日本語盤”、直接ではありませんがパートナーの“1964年サンレモ音楽祭 パトリシア・カルリ「夢みる想い」”、“チンクェッティ主演映画「愛は限りなく」(サン・トラ盤)”を書いてきたので、やはり国内盤を紹介しつつ進めていきましょう。
もう近々、この梅雨があける頃には、昔のシングル盤の曲を集めた、「シングル・コレクション」のCDボックスが発売されるようです。まずはバイオグラフィーを兼ねながらシングル盤の話から始めましょう。
※お断り 文章の中でイタリアのシングル盤を中心にジャケット画像を挿入しいきます。またそれに対応する国内盤のジャケット画像も挿入しますが、国内盤が発売された順番に並んで出てきません。ご承知ください。また、国内のシングル盤が発売されておらず、LP盤などで発売されている曲はLP盤のレコード番号を表ししております。LPについてはまとめて紹介しますので、それまでお待ちください。
序章 生立ち
ジリオラ・チンクェッティ(Gigliola Cinquetti)1947年12月20日ヴェローナ[1]生。彼女は裕福なインテリの家庭に生まれました。家族は父ルイージは建築設計士、母サラ、兄と1才上の姉ロッビ ROBBI (ロザビアンカROSABIANCA)でした。
ロッビとは仲が良く、修道女で音楽の家庭教師に習っている時に両親は彼女の音楽的才能に気づき、父の友人ジェローザが紹介した音楽教授ラヴァッツィン(MAESTRO RAVAZZIN)の勧めで、11才のとき姉と一緒にE.N.A.L. (エナル音楽巡業団)入りました。そしてリストリ劇場のコンクールに出場し優勝しています。
そこでアメリッチャ無名人音楽祭で優勝した同い年でヴェローナ生まれのディーノ・ザンベルリ(DINO ZIMBELLI)[2] と出会いました。彼と知り合ったことがその後の歌手になる夢を抱くきっかけとなったようです。ヴェローナ音楽院に入学しピアノ、音楽理論、ソルフェージの免許をとり基礎をしっかり勉強をしました。
カストロカーロ優勝から サンレモ音楽祭 優勝者に
1963年秋に行われたカストロカーロでジョルジョ・ガーベルの“LE STRADE DI NOTTE(夜の道)”[3] を歌い9月22日の決勝ではエミリオ・ペリコーリの1963年サンレモ音楽祭の入賞曲“水の上(SULL'ACQUA)”[4] を歌い優勝しました。男性の優勝者はブルーノ・フィリピーニ(BRUNO FILIPPINI)でした。その頃RAIの主催するラジオ・コッリエーレ・グランプリ・コンテストに出場し、決勝戦に残りました。優勝するとTV出演できましたが、恩師ラヴァッツィンの勧めもあり、彼女はサンレモ音楽祭の道を選びました。
カストロカーロの優勝が決まった後、いよいよレコード・デビューのため初めての吹込みをすることになりました。スタジオの中では、私の周りのすべての録音機器は私を不安にしました。私はたった一人で、長い腕を持った無害でも奇妙なモンスターに思えました。まず1曲目は“PENSO ALLE COSE PERDUTE(瞳にいっぱいの涙)”で 私の最初のレコードです。私の個性に合わせて作ってもらった曲でした。2曲目も録音しました。この曲も大変好きな“QUANDO VEDO CHE TUTTI SI AMONO (淋しいめざめ)”です。それを吹込むときに、私の解釈で甘い悲しみのようなを気持をこめて歌いました。
N-9474(1963年 CGD – CGD, Italy) “Penso alle cose perdute(瞳にいっぱいの涙HIT-1077B)/Quando vedo che tutti si amano(淋しいめざめHIT-1187B)”
N-9474
HIT-1077
HIT-1187
HIT-1187
HIT-1077 (1964年6月20日 SEVEN SEAS – KING, Japan) “夢みる想い[日](NON HO L'ETA (PER AMARTI) [J])/瞳にいっぱいの涙(PENSO ALLE COSE PERDUTE)”
HIT-1187 (1965. 3.月 SEVEN SEAS – KING, Japan) “あこがれはいつも心に (HO BISOGNO DI VEDERTI)/淋しいめざめ(QUANDO VEDO CHE TUTTI SI AMONO)”
そして16歳で出場しフランスの作詞家として知られているパトリシア・カルリ (PATRICIA CARLI)[5] をパートナーに1964年サンレモ音楽祭で“夢みる想い(NON HO L'ETA' (PER AMARTI))”を歌い優勝し、デビュー2曲目でしました。
決勝当日の逸話として、チンクェッティは誰かほかの人が優勝すると思っており、控室で「眠くなってきたので、早く帰りたい」と言ったところマネージャーから「結果発表までここで待ってください」と言われトランプをし、パトリシア・カルリは持ち込んだテープレコーダーを聞いていたそうです。その頃カジノ劇場の舞台では、司会のマイク・ボンジョルノ(MIKE BONGIORNO)が彼女たちの名前を読み上げていたそうです。
作り話かもしれませんが、決勝日の結果発表は毎年予定より大幅にれ、12時をまわり、翌日になるのが当たり前でした。16才になったばかりのチンクェッティが眠たくなったのは、あながち嘘ではないでしょう。
N-9486 (1964年1月CGD – CGD, Italy) “ NON HO L'ETA' (PER AMARTI) (夢みる想いHIT-1040A)/ SEI UN BRAVO RAGAZZO(すてきなボーイHIT-1040B)
N-9486
N-9497 
N-9497 
2ヵ月後、3月21日コペンハーゲンで開かれた第9回ユーロビジョン・ソング・コンテストでも同じ曲を歌い16カ国の参加、144票中49票を獲得し圧倒的な優勝をし、あっという間にヨーロッパ全土で400万枚シングル盤を売りました。彼女が夢みたカテリーナ・ヴァレンテの国際的なキャリアもすぐ側まで近付いてきました。
HIT-1040 (1964年4月10日 SEVEN SEAS – KING, Japan) “夢みる想い (NON HO L'ETA' (PER AMARTI))/すてきなボーイ(SEI UN BRAVO RAGAZZO)”
HIT-1040
国内盤には画像にも載せた別歌詞カ-ド付(付属品)のもの、値上で定価が370円、400円のマイナー・ヴァージョンが存在します。
「成功の対価を支払うことが始まりました。母の作った2つのサンドイッチを昼食の代わりにそそくさと食べなければなりませんでした。時として有名であることは辛いことですが、観客の暖かい同情は私を幸せにします。私は直接会うことはないと思っていたミーナやオルネラ・ヴァノーニとテレビ番組で歌ったのは名誉でした。彼らは私とはとても違っていることに、私は非常に感心しました!」
[1] ヴェネト州の中でも州都ヴェネチアに次ぐイタリア12番目の大都市。ミラノとヴェネチアの中間に位置しく、古い建物も良く保存された人口27万人の都市(日本では水戸市くらいの人口)。
[2] ディーノ・ザンベルリ(DINO ZIMBELLI)、その後芸名をディーノ(DINO)として、カンタジーロの常連となった。カンタジーロの入賞曲“コンパスの踊り(IL BALLO DELLA BUSSOLA)”やセルジョ・エンドリゴの作った“君の瞳の中に書いてある(TE LO LEGGO NEGLI OCCHI)”などのヒット曲があるが、いずれも日本では未発売。1968年サンレモ音楽祭にはウィルマ・ゴイク(WILMA GOICH)とパートナーを組み“ささやく瞳(GLI OCCHI MIEI)”を歌い入賞している。
SS-1804 (1968年5月5日 RCA -日本ビクター) “ささやく瞳(GLI OCCHI MIEI)/パッサーノ(PASSANO)”
SS-1804
[3] SRL-10・205 (1961年7月10日RICORDI – RICORDI, Italy)“LE STRADE DI NOTTE(夜の道)/BUONANOTTE TESORO”
SRL-10・205
SRL-10・310
SRL-10・310
[4] SRL-10・310 (1963年2月RICORDI – RICORDI, Italy)“UNO PER TUTTE(ぼくの選ぶ人)/SULL'ACQUA (水の上)”
[5] パトリシア・カルリの“夢みる想い”のことは私のブログ『1964年サンレモ音楽祭 パトリシア・カルリ「夢みる想い」』(http://blogs.yahoo.co.jp/cnz27hrio/3752054.html)をご覧ください。
*夢みる想いは1973年にリ・イシューが出ています。
