今回映画音楽のヤフー・オ―クション出品で、ミーナの“月影のレナート”を出しましたがこれはイタリア映画「サンレモ乾杯」の中で歌われていました。この映画ミーナの映画ではなく、きょう紹介するトニー・レニス主演の映画でした。
LL- 5022
OR- 1029
OR- 1029
OR- 1029 (1964年4月ODEON –東芝音楽工業) “クァンド・クァンド・クァンド(QUANDO QUANDO QUANDO)/可愛いインディアン(PICCOLO INDIANO)”
映画「サンレモ乾杯」のサントラ盤として出されたトニー・レニス国内盤4枚目のシングル盤。A面は11枚目のシングルで62年サンレモ音楽祭第4位大ヒットとなり彼の代表曲、。この映画のテーマでもあり、“いつの日か”から改題されました。B面10枚目のシングル盤A面になった曲です。
1962年イタリア映画、63年日本公開。トニー・レニス主演の青春歌謡映画。当時ヒットした曲に載って話が進められていきました。話は作曲家トニー(トニー・レニス本人の役)がサンレモ音楽祭に自作の曲“クァンド・クァンド・クァンド”(62年の入賞曲)を歌って人気者になっていくという作品です。
トニー・レニス(TONY RENIS)、本名エリオ・チェザーリ(ELIO CESARI)1938年5月13日ミラノ生。現在は作詩作曲家、音楽プロデューサーとしても活躍しています。
15歳ころ地元の音楽仲間とチェレンターノやジェリー・ルイスのコピーをし、夏にはエルバ島のホテルで歌っていました。1958年に作曲家ゴルニ・クラメール(GORNI KRAMER)のコンボ(COMBO)・レコードからシングル盤を出すことが出来ました。5057(1958年 COMBO – COMBO, Italy )“COME PRIMA (コメ・プリマ)/TI DIRO’(君に告げん)” でデビューを果たした。コンボで5枚のシングル盤を出し、翌59年V.C.M.(現E.M.I. MUSIC ITALIANA)からMQ 1224(1959年V.d.P. -V.C.M. , Italy)“NESSUNO AL MONDO(君だけの世界)/ADDIO MARIA”でメジャーデビューしました。
国内盤デビューはHM-1094 (1960年9月ANGEL –東京芝浦電気工業) “憧れのブルー・ジーン(CUORE IN BLUE JEANS)/テンダーネス(TENEREZZA)”でした。イタリア盤は7MQ-1379(1960年V.d.P. -V.C.M. , Italy) “テンダーネス”が表でした。この曲は後にジャンニ・モランディがカヴァーし日本でも発売されています。
HM-1094
SS-1848
SS-1848
SS-1848 (1968年11月25日RCA –日本ビクター) “優しい人(TENEREZZA)/イスラエル(ISRAEL)” ジャンニ・モランディ(GIANNI MORANDI)
サンレモ音楽祭初出場は1961年自作の“水たまり”でパートナーはカルメン・ヴィラーニのいたブルーベルのニキ・デイビスでしたが入賞は果たせませんでした。7MQ-1525(1960年1月V.d.P. -V.C.M. , Italy)“POZZANGHERE(水たまり)/
LEI (レイ)“ 国内盤の発売もありませんでした。
7MQ-1525
BB-03047
BB-03047
BB-03047(1960年1月BLUEBELL - BLUEBELL, Italy)“POZZANGHERE(水たまり)/PIGRO MATTIN ”ニキ・デイビス(NIKI DAVIS)
翌年1962年再挑戦したサンレモ音楽祭で大成功します。この“クァンド・クァンド・クァンド”で、世界中の歌手がカヴァーし彼の代表曲となりました。
HM-1142 (1962年5月ANGEL –東芝音楽工業) “アディオ・アディオ(ADDIO, ADDIO)/いつの日か(QUANDO QUANDO QUANDO)” ジャン・コステロ(GIAN COSTELLO)/トニー・レニス(TONY RENIS)
HM-1142
多分トニー・レニスの全盛期だと思います。次の1963年サンレモ音楽祭で優勝を果たします。CM-1012 (1963年5月ODEON –東芝音楽工業) “私の選ぶ人(UNO PER TUTTE)/さくら(LE CILIEGE)”
CM-1012
7MQ-1776
7MQ-1776
この年はもう1曲歌いましたが、こちらは入賞できませんでした。7MQ-1776(1964年1月V.d.P. -V.C.M. , Italy)“PERCHE’,PERCHE’(ペルケ、ペルケ)/GLI INNAMORATI SONO ANGELI“、国内盤未発売です。
一度頂点を極めると、下り坂が来きます。1964年のサンレモ音楽祭に4回目の出場をしますが、入賞できませんでした。国内盤も未発売。
7MQ-1867(1964年1月V.d.P. -V.C.M. , Italy)“I SORRISI DI SERA (夜のほほえみ)/TI CHIEDO SCUSA“
7MQ-1867
CH-2050
CH-2050
パートナーはアメリカのフランキー・アヴァロン(FRANKIE AVALON)。CH-2050 (1964年1月CHANCELLOR - BLUEBELL, Italy)“I SORRISI DI SERA (夜のほほえみ)/MOTIVO D’AMORE(悲しき恋のテーマ)” フランキー・アヴァロンがB面で歌っているのはピノ・ドナッジォの”悲しき恋のテーマ“なので、この曲が弱かったのでしょう。
1965年にはRCAイタリアーナに移籍します。夏のディスク・フェスティヴァルで活躍しますが、サンレモ音楽祭には出場しませんでした。68年自作曲で、パートナーは同じRCAに移籍したドメニコ・モドゥーニョでした。良い曲でしたが入賞できませんでした。
PM-3439 (1968年8月RCA ITALIANA - RCA ITALIANA)“IL POSTO MIO (私の場所)/CHE NOTTE SEI”
PM-3439
PM-3440
PM-3440
PM-3440 (1968年8月RCA ITALIANA - RCA ITALIANA)“IL POSTO MIO (私の場所)/MI SEI ENTRATA NELL’ANIMA” ドメニコ・モドゥーニョ(DOMENICO MODUGNO)
再び息を吹き返すのは1970年でした。その前年69年に設立間もないヌメーロ・ウノ(NUMERO 1)に移籍します。この会社はモゴールとルチオ・バティスティが作り、プログレの象徴のようなレーベルですが、出来た当時は後にらしくなったフォルムラ3だけで、中心歌手として迎えられました。別会社とはいえほとんどRCAが運営しているようなもので、彼自身の大きな路線変更はありませんでした。 この当時RCAイタリアーナは大物歌手を傘下の独立レーベルに所属させる方針転換をしており、その一環でもありました。ちなみにルチオ・バティスティのヌメロ・ウーノへの移籍は1971年になってからです。
SS-1945 (1970年5月 5日RCA -日本ビクター)“愛の贈りもの (LA PRIMA COSA BELLA)/カンツォーネ・ブルー(CANZONE BLU)” ニコラ・ディ・バリ/トニー・レニス 13位ではありましたが久々のサンレモ音楽祭の入賞でした。
SS-1945
ZN-50019
ZN-50019
ZN-50019 (1970年2月NUMERO UNO – RCA ITALIANA) “CANZONE BLU (カンツォーネ・ブルー)/DOVE SEI STATA SUSY?”
トニー・レニスは再びサンレモ音楽祭に入賞し、思いを遂げたかのようにその後一切サンレモ音楽祭には出場しませんでした。と言えば話が終わるのですが、そうならないのが世の中面白いところです。
MA-152・V (1979年 2月 OVERSEAS -テイチク) “ディスコ・クァンドPart.1(DISCO QUANDO Part.1)/Part.2(Part.2)” イタリア盤はWEA ITALIANAから発売されました。サンレモのヒット曲は、素晴らしい財産ですね。イタリアのヒット・ランクに28週在位し最高位8位までになるヒットとなりました。
MA-152・V
彼はその後、ミーナに“グランデ・ブランデ・グランデ”を提供したり、フリオ・イグレシアスに多くの曲を書くなど、素晴らしい活躍をしていきます。 サンレモ乾杯!!