どう考えても殴ったり蹴ったりして暴力を振るうご主人のほうが悪いのに、
「家事や育児をちゃんとできない自分が悪い」と、逆に自分の責任にしてしまう影山さんの考えが、先生にはとうてい理解できませんでした。



※※※



 ふいに3日前の光景が、先生の脳裏にフラッシュバックされます。


「虐待を受けた人間は、そこから抜け出せなくなることが多いのですよ」


 憂いを帯びた東山包括支援センター所長、藤山さんの端正な横顔が目の前にありました。
 午後の柔らかな日の差し込む、先生の医院の待合室です。
 二つのコーヒーは適度に緩くなり、最後の湯気が漂っています。


「暴力を振るう夫というのは、その後でコロッと態度を変えて優しくなったり謝ってきたりすることが多いのです。そうして、被害者である妻は、ついそれを許して自分に非があると思い込んでしまう。
 そう、被害者と加害者がお互いに依存してしまうという、そういうケースが非常に多い。でも決して被害者を説得したり、自分の意見を押し付けたりしないで下さい。あくまでも話の聞き役にまわるのです」


「聞き役……ですか?」


「そうです。被害者の、影山さんの話を真剣に、一生懸命、全神経を集中させて聞くのですよ」


 よく解りませんが、先生は藤山さんの話をコクコクと頷いて聞いています。


「そうして、話している影山さん自身に自分の抱えている問題を整理して、気付いてもらうのです。大事なところは相手の言葉をそのまま繰り返す」



「繰り返す」



と、先生はオウム返しします。


「そうです。そして、影山さんが話の内容を膨らませてきたら、彼女が思考をまとめやすいように、その話の要点をまとめて要約して簡潔に伝える」



「えーーっと、影山さんの話しの内容を彼女がまとめやすいように、まとめて伝える……のですか?」



「ちょっと、違うような気もしますが、まぁいいでしょう」



 虐待を受けている被害者が、自分で助けを求めなければ、我々は手も足も出せずシェルターに保護するよう依頼することもできないのですから、と、藤山さんは眉根に人差し指と親指をあてて話します。



「これが、ソーシャルワーカーの用いる、いわゆる相談援助技術の基本です。わかりましたか?」


「はい!」


「よろしい。でもね、先生」


藤山さん姿勢を正し、キリリと真正面から先生と向き合います。


「ほんとうは、こんな小手先の技術や知識は、被害者の前では何の役にも立たないのですよ」



そこで先生は、おもわずズッコケました。



「ちょ……、ちょっと、藤山さん!!何の役にも立たないことを、なんで僕に教えるんですか!?」



 あのね先生と、藤山さんが優しく語りかけます。



「たとえば貴方は、トラやライオンなどの猛獣の前に素手で立ち向かっていけますか?
銃を持ったテロリストに、丸腰で戦いを挑めますか?」



 先生はぶんぶんと、首を横に振ります。そんな恐ろしいことは、到底できるはずがありませんから。



「そうでしょう?
説得が困難な被害者の前に、何の知識も技術も持たないで、同じ土俵に立つのは愚かなことです」



 だけど先生、といって、藤山さんがいきなり立ち上がり上着のジャケットを脱ぎ出しました。



「我々ソーシャルワーカーは言葉を自在に操る、いわば言葉の魔術師だと自負はしています。
しかし、本当にひとの心を動かすのは、小手先の技術でも駆け引きでもなく、生きた人間同士がぶつかって、葛藤して生まれる、生きた言葉なのですよ」



 藤山さんはさらに、ワイシャツのボタンも外していきます。



「そうです。真剣にクライアントと向き合って、相手を受け入れ、理解するように努め……」



 藤山さんの筋肉隆々とした、胸板の厚い上半身がむき出しになりました。次に藤山さんはベルトを外し、スラックスのファスナーを下げて脱ごうとしています。



「人の心なんて、他人には分からない。
だから最終的に正しい選択に導くのは、あくまでもどちらが覚悟を決めるかです。ひとことで言えば、勝利するには小手先の技術ではなく、より強い“気迫”が必要なのです!」



 おもわず両手で目を覆ってしまった先生が、恐る恐る指の隙間からのぞくと、そこには相撲の回しを締めた藤山さんが、すくっと立っていました。



「いいですか?先生、途中で負けてもいい。投げられてもいい。ただし、最後には一本締めを決めるのです!」



 いつの間にか頭にも髷を結った藤山さんが、左右の足を交互に上げて、シコを踏んでいます。




「何度投げられても、投げられても、最後まで決してあきらめずに……!!」



 そういいながら、おもむろに先生に向かって突進してきます。



 助けてーーッ!という悲鳴も虚しく、先生はあっという間に、藤山さんに一本投げを決められて、ドスンという音とともに、思いっきり医院の壁に頭と背中をぶつけて目を覚ましました。



 途中から、ベッドから転げ落ちて目が覚めた、明け方に見た夢と記憶が混同してしまったようです。




※※※




 そして影山さんがバン!と受付のカウンターを叩く音で、今いる現実に引き戻されました。
 それはいつも儚げでか弱いイメージの彼女にしては、ちょっとびっくりする行為です。


「小松田先生……もう、宜しいでしょうか?私、早く帰らないといけないんです!お代はいつもと同じ690円ですよね」


「ちょ、ちょっと待って下さい!話はまだ終わっていません。今日はあなたのお話をトコトン聞きたいのです」


 影山さんは気持ちを落ち着けるように、ふーーっと息を吐き、悲しそうに目を伏せました。


「先生、私、本当に感謝しています。主人が市のゴミ収集の仕事をしていて朝が早いものですから、寝てしまう8時前にならないと、外出することができなくて。
毎晩、お疲れのところ、特別に遅くまで医院を開けて待っていてくださってありがとうございました。
何も聞かずにただ黙って足腰を揉んで下さる先生との時間が、私にとって唯一安らげる居場所だった……」



 先生は直感的に、もう影山さんはここに二度と来るつもりはないのだと、わかりました。



「小松田先生はとても優しかったから……その優しさに甘えてしまった私の身勝手に、今まで付き合って下さって、申し訳ありませんでした」



 そういって、頭を下げる影山さんに、先生はかけるべき言葉が見つかりません。




「お代は……いくらですか?」




 無理に笑顔を作った影山さんの目尻には、涙が滲んでいます。


 先生は何かいわなくてはと、口をパクパクさせていますが、思考がまとまらないので声になりません。




《もういいよ、センセイ!よくがんばったよ》


《小松田先生、よくやってくれました。今回はここまでで仕方ない。引き上げましょう》



 イヤフォンマイクごしに、二人の労いの言葉が届きます。



「六百……九十円です」



 そう告げて、ガクリと先生は肩を落としました。



 それは、投げ飛ばされた先生が、負けを認めた瞬間でした。




           〜続く〜







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