お婆さんは、先祖代々から伝わる襖一枚分もある大きな仏壇の前に鎮座します。先生もそれにならい、お婆さんの後ろに正座しました。




  仏壇にはきらびやかな装飾が施され、中央には金の観音様が穏やかな表情で2人を見下ろしていました。





般若波羅蜜  観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 

度一切苦厄 舎利子


色不異空 空不異色 色即是空


空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相 


不生不滅 不垢不浄 不増不減 ……


………………………


……………





  深く手を合わせ、お婆さんのお経を口真似していると、不思議とザワザワしていた先生の心は落ち着きを取り戻してきました。





  お婆さんの読経の声と重なり、美しい鶴を掘った欄間の上の天井に福島さんの笑顔が浮かび上がります。





「虐待は許さない!」と眉根を寄せた凛々しい表情の藤山さん。





  介護予防教室の元気なお年寄りたち。





  バイトとキャンパス生活で青春を謳歌し、日々大人に近づいてゆく息子と、「いってらっしゃい」と毎朝、背中を押して送り出してくれるお嫁さん。




  そして……いつも儚げで悲しそうで、心も身体も疲れ果ててやって来る影山さん。





 自分はいままで、一体何を焦り、何を恐れて追い立てられていたのだろう?そしてそれらは、本当に生きていく上で、みんなに必要とされることだったのだろうか……。




 ただ介護予防教室のお年寄りたちに笑顔になってもらいたかった。幾つになっても転ばず元気でいてほしかった。




 子供たちにも、何の心配もなく学生生活を楽しんでもらいたかった。だから頑張ってお金を稼ぎたかった。




 嫁さんとも、たまには温泉旅行にいったり、服を買ってやったりして喜ばせてやりたかった。




 だから、たくさんの患者さんに来てもらえるよう、朝早くから夜遅くまで医院を開けて、走り回って夜は本を開き勉強をして……。




 多少でも、みんなの役には立っていたかもしれない。喜んで感謝してくれたお年寄りたちも確かにいた。




 だけど、周囲の人たちのために昼夜頑張っても、肝心な自分自身のことは、はたして大事にしていただろうか……⁉︎



 心も身体も無理をしてボロボロになっていたのではないか。


 

 張りぼての虎ように身体の中は空洞で、患者さんをマッサージするたびに指の骨がバキバキ折れて、

 

 いつか、福島さんに冗談でからかわれたように、このままでは、いつか“ゾンビ先生”になってしまう……。




 先生が生気のない“ゾンビ先生”になることは、はたしてみんなの願いに添うことなのでしょうか……!?






 そして……いつも儚げで悲しそうで、心も身体も疲れ果ててやって来る影山さん。




 彼女のことは、何としてでも救わなければなりません。



 彼女を救うには、まずはボロボロになった自分自身を立て直さなくてはいけません。ゾンビのように魂の抜けた状態では、人を助けることなどできないのです。




 いま、先生の心は、波紋の静まった湖のように落ち着きを取り戻しました。





ーーさぁ、これから小松田先生のやるべきことは、ただひとつです ーー





             〜続く〜




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