フランスの核実験:犠牲者たちの最後の闘い【1】 | PAGES D'ECRITURE

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フランス語の勉強のために、フランスの雑誌 Le Nouvel Observateur や新聞の記事を日本語に訳して掲載していました。たまには、フランス語の記事と関係ないことも書きます。


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4月29日の 「アウシュビッツ・ツアー」【2】  の末尾で予告したものの延び延びになっていた、フランスの核実験の犠牲者に関する記事を掲載します。

週刊誌 Le Nouvel Observateur の2009年4月23-29日号(通巻2320)に掲載された、 Essais nucléaires : La dernière guerre des sacrifiés (核実験:犠牲者たちの最後の戦争)という記事です。


ESSAIS NUCLÉAIRES

La dernière guerre des sacrifiés



サハラとポリネシアで、数百人の民間人と軍人が核実験によって汚染された。時には放射線に対する事前の注意なしに被曝した、原子爆弾の「モルモット」たちは、ようやく認められ始めたばかりである。ソフィー・デ・デゼールSophie des Désertsが、防衛機密と国益に対する長い闘いを語る。

「あそこ、ムルロアで、私に一つの運命が押し付けられた」、彼は言っていた。1976年から1977年にかけてのムルロア環礁での滞在以来、ヤニク・フロックYannik Floc’hは自分自身の影でしかなかった。ポリネシア人が呼ぶように、「秘密の島」は彼の青春を奪った。20歳で既に彼の歯は割れ、肺は咳き込み、脊柱は痛みのために曲がっていた。妻のマリ=ジョゼMarie-Joséeは、医師団の無力な視線の下で彼が衰弱するのを見ているしかなかった。元水兵の夫は、「ムル」での彼の任務、礁湖での水浴、汚染された地域で鉄屑を集めた日々のことを語っていた。彼は自分の苦しみの根元がその日々にあったと確信していた。ヤニクは、自分の体が動かなくなるその日まで闘っていた。そのとき、脊柱全体に転移していた肺ガンが見つかった。「運命だ」、夢想を抱くことなく、しかし不機嫌になることもなく、彼は繰り返した。ヤニクは人生の最も美しい年月をポリネシアで過ごした。2004年7月、彼にさよならを言う前に、妻は約束した。「私は真実を浮かび上がらせる。」


Une clause secrète
(秘密の条項)

 この2009年3月の土曜日、マリ=ジョゼ・フロックは、AVEN (Association des Vétérans des Essais nucléaires 元核実験従事者協会)がチャーターしたヴィレーヌのモーターボート上で昼食をとる。彼女の周りには、多くは病を抱えている、ずっと若い男性たちがいた。それでもさわやかな風が、希望の息吹のように、集会を横切る。ほぼ半世紀の沈黙の後、フランス国家はようやく核実験に関する資料を公開する。「我国がそれ自身によって平和となるべき時である」、補償に関する法案を発表する前に、フランス国防相エルヴェ・モランHervé Morinは宣言した。彼は、1960年から1996年に、サハラ、次いでポリネシアにおける核兵器発射に参加した15万人の民間人と軍人に話しかける。4月27日にムルロアの8人の元作業員の最初の法廷が開かれるパペーテPapeeteで、人々は喜びと慎重さの間で迷っている。これらの原告は、他の「元核実験従事者」と同じように、自問する。誰が実際に補償を受けるのか?被爆の証明をしなければならないのか?そしてもし、かくも長い間防衛機密の陰に隠れてきた国家が、なおも言い逃れしようとしたら?「この法律の適用の決定を待ちましょう」、見つける前に、マリ=ジョゼが、明るい顔で打ち明ける。「私が生きている間に、これだけの前進があるとは想像したこともありませんでした。」

 全ては、陰で20年以上の間人生を核実験の影響に捧げてきた一人の男から始まった。国防省が必要としないであろう、平和主義者で、理性的で純粋な男である。ブリュノ・バリロBruno Barrillotは最初に、教会に身を捧げた。ユーロミサイルに関する論争の最中の教会の軍国主義的な立場に失望して45歳で去るまで。元司祭は次に、『リベラシオン』の契約記者となり、CDRPC(Centre de Documentation et de Recherche sur la Paix et les Conflits平和と紛争に関する資料収集・調査センター)を創設する。1990年、グリーンピースが彼に接触する。ムルロアに近い環礁からの気懸かりな証言、放射能汚染の話、疑わしい死などを検証しなければならない。バリロはパペーテにむけて飛び立ち、そこでベンクト・ダニエルソンBengt Danielssonに迎えられる。このスウェーデンの民族学者とその妻は、福音教会とともに、フランスの核実験に対する歴史的な反対者である。CEP(Centre d’Expérimentation du Pacifique太平洋実験センター)の人間が、彼らの天国を汚すことを決して我慢しなかった学者に属する。彼らは1965年にCEPの職員が何十億フランかを持って上陸するのを見た。魔法使い見習いはまず、アルジェリアのサハラ砂漠で原爆を発射した。「万歳!」、1960年2月13日、レガーヌRegganeでの初めての原爆「ジェルボワーズ・ブルー Gerboise bleue(青トビネズミ)」の爆発の後、ドゴールは叫んだ。アルジェリアの近隣諸国は既に、放射能の影響を心配していた。エヴィアン協定の秘密条項は、1968年までの地下核実験を認めていたが、フランスは大気中核実験のために別の場所を見つけなければならなかった。フランスは最初にCalviカルヴィ地区(コルシカ島北西部)を考えた。「核実験は観光シーズン以外に行われる」、CEA(Commissariat à l’Énergie atomique原子力庁)の最高顧問は、ポリネシア地域に向きを変える前に、敢えてそう言っていた。「恐れることはない。諸君が危険を冒すことは全くない。」 誰もがお人好しなわけではない。アメリカと英国は核実験によって既に太平洋を汚していた。1966年9月、ポリネシア選出の国民議会議員、ジョーン・テアリキJohn Teariki はドゴールに懇願した。「あなたの軍隊、爆弾と飛行機を積んで帰ってください。そうすれば、後になって我々の白血病患者、ガン患者があなたを病気の原因として非難することはないでしょう…」 しかし将軍にとって、原爆のないフランスは何ものでもなかった。

 1990年、次第に激しさを増す反対にもかかわらず、核実験は続いた。バリロはムルロアに最も近い有人の環礁、人口350人で800人の軍人がいる、マンガレヴァMangarevaで支持を得る。村民たちは恐れていたが、話し始める者もいる。核実験の開始以来、誰も礁湖の魚を食べられない。そればかりか、子どもや若者を含めて、さらに多くの病人と死者がいる。それでも最初は、この世界の果ての環礁にフランス軍が到着したことを誰もが喜んでいた。金が大量に流通した。爆弾発射の間はお祭り騒ぎだった。島全体が、軍が自由になるアルコールと一緒に映画を上映する大格納庫のようだった。軍が完全気密のトーチカに避難しに行く前は。「提督は、原子爆弾は良い物だと言っていた」、ある漁師は思い出す。

 ブリュノ・バリロは打ちのめされてフランスに戻ると、核実験に関する本を書き始める(『Les Essais nucléaires français 1960-1996フランス核実験、1960-1996年』、Edition CDRPC)。それから数年後、週刊誌『le Nouvel Observateur』のヴァンサン・ジョヴェール Vincent Jauvert はDIRCEN(Direction des Centres d’Expérimentations nucléaires 核実験センター本部)の資料室で信じられない文書を発見する。それらの文書は、軍とCEAが核実験によって現地住民に放射線による影響が引き起こされるのを知っていたことを証明している(Le Nouvel Observateur 1998年2月5-11日、通巻1735 )。1966年7月2日の爆発後、ある報告書が土壌と、食料品の深刻な汚染を詳細に記述した後に司令部を安心させる。「住民は…完璧に気づいていないし無頓着だ。」 モルモットは他にもいる。核戦争の訓練をするために1961年4月25日のポイント・ゼロから650メートルの地点に派遣された、サハラからの195人の召集兵のように。しかし間もなくジョヴェールは、社会党の国防相アラン・リシャールAlain Richardの官房の命令により、調査を止めるよう促される。理由は、何十年も前から右翼でも左翼でもいつも同じ、防衛機密である。アメリカ政府が核実験の犠牲者に賠償し、資料室を開放しているにもかかわらず、フランスは、またしても閉ざしてしまう。恐らくフランスは時間が自らに有利に働くと考えているのだろう。元従事者の生命は永遠ではないだろうから。


« Fermez les yeux » 

(「目を閉じよ」)

 1996年の核実験中止は反対に、元従事者たちを目覚めさせる。著書の出版後、ブリュノ・バリロは数百通の手紙を受け取る。アルジェリア、ポリネシアの元従事者、マリ=ジョゼ・フロックのように、配偶者や父親が、病に冒された女性たちから。血液、骨、肺のガン… 公式の記録と、フランスの偉大さに関する美しい演説からは程遠く、別の物語が現れる。何千という数で核の炎の下に投げ出された若者たちの物語。核兵器を見出した国家の、避けられない、狂気と失敗に服従した無実の者たちの物語。全員が、特にサハラの元従事者は断言する、「軍は我々にどこに行くか言わなかった。」そして、一旦実験場に付くと、「何も危険なことはない」と断言した。1982年にムルロアに配属された、CEAの秘書だったフロランスFlorenceは言う。「私たちは皆、とても若く、そこには太陽があり海があった。それに加えて、給料も非常に良かった。上司たちが、危険はないと言ったとき、まるで私たちの親が言っているようだった。」 20年後、甲状腺癌に苦しむフロランスは、納得する理由が欲しいと思っている。

 これら元従事者に、何をし、何を言うべきか?ブリュノ・バリロは彼らが連帯するように後押しする。2001年、AVENが生まれ、それから数週間後にポリネシアで、その姉妹団体であるMoruroa et Tatou (モルロアと私たち)が生まれる。アルジェリアでの元従事者の一人もまた、団体を作ろうとする。モアメド・バンドジェバールMohammed Bendjebbarは1968年にサハラの実験場を解体する任務に就いていた。数ヶ月間、フランスによって放置された汚染された建物、トラックと飛行機の残骸に関わった後、アルジェリア軍によって、公式に「被爆者」と認定された。この司令官はフランスで治療を受け、年金を受け、さらには原爆投下50周年記念に広島に招待されさえした。しかし彼は他の全ての人たち、防護なしに働いた労働者、核実験場の近くのオアシスで生活していたトゥアレグ族のことを考えている。フランス人が爆弾を爆発させる前に、単に「目を閉じる」ことだけを要求していた、これら不幸な人々である。うわさは砂漠を駆け巡る。ポリネシアのように、障害を負った子供たち、ガンの蔓延… AVENの兄弟たちに、バンドジェバルは言う、「誰もが皆、モルモットだった。」と。

 元従事者たちは、アスベストの被害者の才能ある弁護士、ジャン=ポール・テソニエールJean-Paul Tessonièreに助けを求める。裁判官を前に、法廷闘争は困難を極める。軍の保健局は関係書類を渡すことを嫌がり、あるいはしばしば、驚くほど内容のない文書を送ってくる。例えば、ヤニク・フロックの書類は、彼が線量計、すなわち身体に受ける放射線の量を測定する装置を身につけていたにもかかわらず、照射に関するデータを全く記載していない。国防省の広報官らは、元従事者たちに、5人に一人以上のフランス人が、何らかのガンを発症することを繰り返し言い続けている… 彼らは強く主張するが、フランスの核実験は環境を汚染しなかったと。マリ=ジョゼはそんなことを信じない。夫の死後、彼女はアメリカとイギリスの元従事者、マーシャル諸島とネバダ州の住民に対して行われた研究を見つける。それは、リンパ腫、白血病、甲状腺、脳や肺のガンのより高い発生率を証明している。

(つづく)

SOPHIE DES DÉSERTS



Le Nouvel Observateur 2320 23-29 AVRIL 2009

http://hebdo.nouvelobs.com/hebdo/parution/p2320/articles/a399943-.html


次回 フランスの核実験:犠牲者たちの最後の闘い【2】 に続きます。

なお、訳文中に出てきた、週刊誌Le Nouvel Observateur の1998年2月5-11日号(通巻1735)の記事とは、Exclusif. Ce que la France n'a jamais voulu avouer - Essais nucléaires: les archives interdites de l'armée (独占。フランスが決して告白したくなかったこと―核実験:軍の禁じられた資料室)と、その関連記事のことだと思われます。 原文はこのリンク先で読むことができます(多少、文字化けはありますが)。また、部分訳は タヒチと仏国核実験の影響その2  で読むことができます。ただし、このサイトはその後に現れた関連情報などを含めて、原文の直訳ではない、かなりの労作となっています。そのためもあり、途中までで終わっていて、続きが掲載されていないのが残念です。

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