メッセージでいろいろお話させていただいている あがためのおさんの記事で私のことがでてくるので、こちらからも。

 

それにしても、このSNS的なブログのアメブロっていいですよねー。

書きかけの記事が途中で吹っ飛ぶことが多いので、そのたびに、

「またか」ダメーバ!(怒)と思いますけど(笑)。

 

=============ここからめのおさん=============

前と同じ手紙(1643年 5月 21日付け、デカルトからエリザベートへ)の続きです。

 

 

Je considère aussi que toute la science des hommes ne consiste qu'à bien distinguer ces notions, et à n'attribuer chacune d'elle qu'aux choses auxquelles elles appartiennent. Car, lorsque nous voulons expliquer quelque difficulté par le moyen d'une notion qui ne lui appartient pas, nous ne pouvons manquer de nous méprendre; comme aussi lorsque nous voulons expliquer une de ces notions par une autre; car, étant primitives, chacune d'elles ne peut être entendue que par elle-meme. Et d'autant que l'usage des sens nous a rendu les notions de l'extension, des figures et des mouvements, beaucoup plus familières que les autres, la principale cause de nos erreurs est en ce que nous voulons ordinairement nous servir de ces notions, pour expliquer les choses à qui elles n'appartiennent pas, comme lorsqu'on se veut servir de l'imagination pour concevoir la nature de l'âme, ou bien lorsqu'on veut concevoir la façon dont l'âme meut le corps, par celle dont un corps est mû par un autre corps.

《 訳 》

 

私はまた、すべての人間の科学というものは、この概念を明瞭に識別し、各々の科学を それぞれの概念に相応しい物事へ配属することにあると考えます。なぜなら、不適切な 概念を用いてある困難なことを説明しようとするとき、私たちは間違いしか犯さない からです。私たちがこれらの概念のひとつを他のある概念によって説明しようと する時と同じように。なぜなら、原初(基本)的な故に、それぞれの概念はそれ自身に よってしか理解され得ないからです。同じように、感覚の使用は私たちに、 図形とか運動とかいった他の概念よりずっと親しみやすい延長の概念を齎しましたので、 私たちの過ちの主な原因は、私たちが普通使っているこれらの概念を、それらの概念が 相応しくない物事を説明するために使うことにあります。私たちが、魂の性質を考える のに想像力を使いたがるように, あるいは魂が身体を動かす仕方、ひとつの組織体が もうひとつの組織体によって動かされるといった仕方をを考えるときのように。

 

 

訳者注: ここの corps ですが、「ひとつの身体がもう一つの身体によって動かされる」、と訳すと魂と身体の関係を論じている所へもう一人の人間が現れてくるので「身体」と いう訳はふさわしくないと考えました。

「corps」という言葉は非常にたくさんの意味に使われます。一般的には「身体、胴体」。 抽象的に「集合体、総体」といった意味、人間の集合ならば団体( corps de métier といえば 同業組合)とか、機関、行政府、司法府といった「府」の意味、さらに軍 armée と師団 division の間の規模の「部隊」に相当する集団に使われます。

科学用語になると、「物体、物質、本体」といった意味。 解剖学では、corps vitré 眼球の硝子体、 corps strié 脳の綿状体。獣医学では corps étranger 異物などと使われます。

「同じ性質をもつとか、ある関係性によって繋がった、ひとまとまりの集合体」と解釈すれば デカルトがここで使っている「corps」という言葉が必ずしも「身体」とは訳されないのじゃないかと思います。抽象的なフランス語と具象的な日本語の違いだけじゃなく、 「身体」のなかにも大小さまざまな「corps」があると考えられますし……。

さらに、同じ「身体」にしても医学的、物理的な身体のほかに、「心身関係」をみる場合は 「歴史的身体」ともいうべき身体を考えねばならない。つまり、自然科学的身体に対して 意識によって主観的に捉えられた身体、身体の中のある組織体、あるいは変化する状況の 中のある場所、ある状態に置かれた身体というものも考慮しなければならない。

 

そのことを指摘してくださったのは、ゆっきー女史です。

==================================ここまで引用====================================

はいー

悪魔が来りて笛を吹く

悪魔ゆっきーの登場です!

 

個人的にじゃ「かわいい悪魔」って言われるのがすきなのだけどね(笑)。

 

 

デカルトの、コギト・エルゴ・スムなんて、そもそもデカルト本人が言ってない

だったらなんで『エリザベート書簡』『情念論』があるんだよ。

形成史っていうのをやってみても、これはおかしい。

 

=============ここから また めのおさん=============

めのおは短編小説「れくいえむ」の第3章で、語り手の僕が、西洋近代の合理主義の起原ともいうべきデカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」を逆転して「心身一如」がありのままの本当の姿ではないのか、とフランスの老婦人に言い、老婦人は、アリストテレス以来「魂は身体と切り離されて、それ自体で存続する」と言い返します。

デカルトが「方法序説」を書いた時は、「魂と身体は別のものだ」と心身二元論を唱えたのですが、後にこの「エリザベート」がデカルトに宛てた手紙で「自身の体験から身体と精神とは密接な関係にあるのではないでしょうか? 」と疑問を呈したことを機にデカルトの魂と身体との関係についての考察が始まります。

「心身問題」はとても興味ある問題ですね。特に日本や中国では太極拳や空手、武道や芸能に 「心身一如」という言葉で心と身体との統一が昔から言われてきました。

めのおは、最近投稿した「Léonard Foujita という画家」の記事を書きながら、藤田がたゆまずデッサンを描き続け、晩年には眼と手と心とが一体化した「心身一如」の名人芸の域に達していた、と思いました。

たとえば、詩人の金子光春が藤田と会った時に、「金子さん。いいものお見せしましょうか」と藤田が言って紙に鉛筆でさらさらと傍にあった木の葉を描きはじめ、一分もしないうちに描き上げて金子に見せた。金子が木の葉を取ってデッサンに重ねるとぴったり重なったので驚いた、と語っているエピソードなどを見れば、藤田の長年の修行を経たデッサンの腕が無形文化財的な芸の域に達していたことを示しています。

「善の研究」の中で西田は「真の知的直観」とはなにかについてこう書いています。

「併し、真の知的直観とは純粋経験に於ける統一作用其物である。生命の捕捉である。即ち技術の骨(コツ)の如き者、一層深く云えば美術の精神が如き者がそれである。例えば画家の興来り筆自ら動く様に複雑なる作用の背後に統一的或物が働いて居る。……こは実に主客合一、知意融合の状態である。物我相応じ、物が我を動かすのでもなく、我が物を動かすのでもない、ただ一の世界、一の光景あるのみである。」


少し脇に逸れましたが、デカルトがプファルツ公女エリザベートと手紙の交換をしながら考えていったのが「魂と身体の結合」でした。これについて、驚くべき深い認識を持っておられるゆっきー女史の言葉を許可を得ましたので引用させて頂きますと……。


「私もデカルトの謎のありかは「エリザベート書簡」にあると思います。

西田幾多郎に「歴史的身体」というあまり注目されない概念があります。 そして私は、これがデカルトの思惟したエリザベート書簡の本質だと思っています。


” En sorte que ce moi, c'est-a-dire l'ame par laquelle je suis ce que je suis, est entierement distincte du corps ”

この「du corps」なんですが、私はデカルトのいいたかったのは西田幾多郎の「歴史的身体」だと思います。

日本人がフランス人以上にフランス語を喋れも、アメリカ人以上にニューヨーク英語を喋れても、 日本人であることを免れない。言語とはそういうものかと思います。身体も。そして抽象的な思考も、心も。

思考の故郷(良くも悪くも)を喪失してしまうことをハイデガーは「himat rosen」と言いましたが、デカルトの身体論の体の部分はこの逃れられない「故郷」じゃないかなと思います。

この「故郷」がデカルトが、フランスではなくオランダで思惟した、西洋的な「精神」の反対語ではないでしょうか。これが統一されるとcomplementarityとなると思います。

「心身一如」と「心身二元論」は「自己」(コギト)の内部で分割されると、めのおさんのおっしゃるように、同じにはならないと思います。

でも「歴史的身体」と分割されるとcomplementarity 「縁」によって世界と結合するcomplementarity となるというのが私のデカルト解釈です。

自分の精神は、自分の内部で「心」と「身」に分割されるのではなく、自分の「心」と「宿命的身体」に分割される。

「精神」の反対語は実は「肉体(とか身体)」ではなくて「歴史」なのではないか? というのが、私の「エリザベート書簡」の解釈です。」


ゆっきー女史のメッセージはもう少し続いて、たいへん深い思想的にも素晴らしい洞察を示してくださったのですが、それはまた機会を見て触れさせていただくとして、めのお自身はこの「歴史的身体」についてもう少し理解を深めたいと思っています。それに、このデカルトの書簡もこれからどんな展開になるのか知るのか楽しみですし、もうしばらく翻訳を続けたいとます。

 

 

Ave verum corpus natum de Maria Virgine. 
Vere passum immolatum in cruce pro homine: 
cujus latus perforatum unda fluxit et sanguine. 
Esto nobis praegustatum in mortis examine.