地名の原景


私の最近の「推し」は、「地名の原景」という木村紀子氏の著書であり、これぞ本物の「教養」だと思っている。何度も読み返している。


日本には各地に普段何気なく、特段の区別もない野・原、川・河、天・地、田・畑、江・浦などの「名前」がある。特に平地は「葦(あし)」由来の地名が多い。


これらを古典からの引用や、無理な断定や偏見もなく、読み手側にニュアンスを想像させてもらえる論説で、ストレスがなく非常に心地良い。


これまで私の知る限り、この手の書籍は、非常に「浅い」週刊誌的な内容か、大学教授の個人的な名声「欲」だけで構成されてしまうので、レッテル貼りや偏見だらけの「断定」的論説となってしまい、非常に不愉快で、正直敬遠さえしていた。


今回もそうなのかと半信半疑であったが、Webの記事か何かで、読んだ人の「感想」が普通ではない「熱量」に興味を惹かれ、それが元で手にした。


そして読んでみたら、最初は大学の講演のような怠惰なレッテル貼りをしていたのがお恥ずかしいくらいで、丁寧な論説と、無理のない推察。何より専門性に固執せずに展開する、考えられた構成の「濃度」が素晴らしく、遥かに現代の国語辞典を上回っている。


お陰様で、何度も読み返して、違う視点で何度も再考させて頂いている。


こういう書籍は本当にありがたい。


本書のテーマとなるポイントは、原始日本語の「存在」と、その後に導入された「ヤマト」言葉が融合され、現代に繋がっている事を教えて頂ける。


特に「海人」の言葉が、思う以上にかなり広域に浸透している姿が炙り出されている。


これは今までにない視点で、書き物が残っていない、例えば縄文時代あたりからの共通語としての原始日本語が「あった」事が非常に良くわかる。


逆に言うと、これまでの「通説」や国語辞典の記述には、視点の欠如からの重大な「誤り」がある事がわかる。


その「誤り」が学校教育の教材なのである。


原始日本語に含まれる日本の原風景と人々の営み、その土地の「地名」が見事に繋がっていて、「当たり前」の中に歴史が隠されている。


本当なら、こうした叙情的なものを育むことこそが、真の教育だろうと思う事がある。


ただ、近所の小学校では「外国に由来のある」児童は、実に3割にも達しているそうだ。知らぬ間に随分と侵食が進み、学校教育自体の「崩壊」も近いのでは無いだろうか?


いっその事、子供全員を「日本人化」しても良いとも思うが、つまらぬ反発も多いであろう。


ならば、学校教育なんぞは技巧的なものに特化し、叙情的なものは「親」が感じて、子供と共感できる場を創る事が重要なのではないだろうか。


更にもっと言えば、本当に重要なのは、親となる大人が、日本人としての「知識」を持った方が未来は良くなると思うのは私だけだろうか。


言葉には「言霊」が宿っていると言う。自身に響くものであり、しかも古代より続く叙情を含んだ「音」である。そこに何もないはずはない。


定義もしない、受け取る方が勝手気ままに解釈を変えるような「カタカナ語」で誤魔化すのは、政治を含めて日本を軽視した野蛮な行為でもある。


英語教育の幼少化といった「蛮行」の前に、もっとやるべきことがある。


この本のおかげで、今日も一言一言、言葉に感謝して、日本の先人達にも感謝したいと思う。