いきなり書いていますが神様はエラソウにしている人は好まないのでは無いですか?自分的にどんな人がエラソウなのか考えると「先生」と呼ばせている人達でしょうか。

 

先生と呼ばせている人達で最初に浮かぶのは教育関係の先生ですね。個人的に成人前の人に先生と呼ばせるのはアリかなと感じます。でも時代によって成人の年齢は変わりますよね、昔は16歳過ぎたら成人だった様に記憶しています。すると16歳以上の人に先生と呼ばせている人はエラソウにしている人と思いますね。

 

自分的には先生と呼ばせている人だけでなく呼んでいる人も同じ種類の人です、へりくだっている態度をしておけば自分は良くしてもらえるのではと言う魂胆が見えるので気持ち悪いしその人を小ばかにしている態度に見えます。

 

(かみ)御用(ごよう)(いた)すやうに()りたと(もう)して、今日(けふ)からエラソウに出世(しゅっせ)するやうに(をも)ふて()ると、慮見(りゃうけん)(ちご)ふぞよ。(かみ)取次(とりつぎ)(はら)(なか)(どう)をすへて、ドンナ偉大(ゑらい)(こと)でも(いた)して、()(こと)成就(じょうじゅ)さして(くだ)さらねばならぬ、人民(じんみん)への報酬(おんれい)()(うへ)(こと)()るぞよ。()れで(まこと)(もの)ほど報酬(おかげ)(をそ)いと(もう)すのじゃ。(はや)()(がら)()て、他人(ひと)()せたいやうな精神(せいしん)では、(かみ)()()はんぞよ。(いま)人民(じんみん)(まこと)改心(かいしん)(いた)させるのには、余程(よほど)事変(こと)()いと(むづ)()いぞよ。(あま)()(くら)りて、足下(あしもと)真黒暗(まっくらがり)で、()()()きが(わか)らん時節(じせつ)()暗闇(くらやみ)()立替(たてかへ)て、天地万有(それぞれ)に、()()守護(しゅごう)なさる(かみ)を、()()()()()御鎮(おしづ)まりなさる、御世話(おせわ)さして(いただ)く、大望(たいもう)御用(ごよう)()るぞよ。()神様(かみさま)でも御手柄(おはたらき)次第(しだい)(しゅっ)()()すと(もう)して()るから、稲荷(いなり)でも白狐(びゃっこ)でも(なに)(がみ)でも、(まこと)(つらぬ)きた(かみ)から御用(ごよう)使(つか)ふて、手柄(てがら)()せて()るぞよ。(はたら)()ければ出世(しゅっせ)出来(でき)るから、眷属(けんぞく)などが()(いち)(かみ)()をカタリて()るなれど、(うそ)(もう)(かみ)免職(めんしょく)()らはすぞ。鉄面皮(あつかま)しく(いた)して(うそ)(もう)して()ても、()(ほう)()()とどけた(うへ)処理(しょち)(いた)すぞよ。遠国(えんごく)から()(まこと)(かみ)()りたら、綾部(あやべ)大本(おほもと)(まい)りて(くだ)さりたら御用(ごよう)(おほ)()けるが、余程(よほど)身魂(みたま)()(みが)いて()んと使(つか)へんぞよ。

次に目に付くのが「誠の者ほど報酬は遅い」です。それは若いうちに目が出ている人ほど「誠の者ではない」事にならないですか?次にちゃんと書いてありますね、「 早う手柄を為て、他人に見せたいやうな精神 」SNS上でも沢山いますね、そしてそんな人達を持ち上げているマスコミも同じ種類の人達だと見ています。誠とは反対の方向を向いている人達だと考えます。

 

それでも途中で改心出来れば問題ないとは思うのですが普通にそれが出来ないので明治33年からお筆先で知らせているのだと思います。普通の努力で改心出来るのなら何も明治の33年からわざわざ「お筆先」を出してまで改心、改心と伝える必要が無いとは思いませんか。

 

だから早いうちに目が出てそれを人に自慢したい人達からは可能な限り離れる様にしています。テレビも無いしSNSでも有名所はまず見ないですね。離れる様にしているのもそうですが見てもつまらないので見ていられません。例えるなら気持ち悪い匂いを出されているようなもので同じ空間に長い時間一緒に居るのはキツイです。

 

次に興味を引くのが「 稲荷でも白狐でも何神でも 」です。これは稲荷や白狐、他に沢山ある神の多くは改心が出来ていない神様とならないですか?神様なら何でも良い訳では無さそうです。

 

それで考えられるのが今の世の中は神様の目から見たら立て替え、立て直しをしなくてはいけない程に酷くなってしまった世の中な訳です。世の中を酷くした張本人の一つが現代に幅を利かせている神様とならないですか?稲荷神社は何処でも大繁盛しているのでしょうか?

 

それにここでも何回か書いていますが多くの神社に収まっているのは波動的に見れば「神様」ではありません。「神様」の波動に届いていない存在です。つまり「神様」よりも低い波動の存在です。それが次に出て来た「 眷属などが我れ一と神の名をカタリて来る」の事を言っているのだと考えます。普通に考えて「神様」の波動に届いていない存在が「神様」な訳がありません。当たり前の事です。

 

それでも改心出来て誠の心になったら使うとの事ですからまだ分からないですよね、もしかしたら改心出来るかもしれないし。もしかしたらここに稲荷と白狐の名前を出していると言う事はこの2柱は改心があり得るのかも知れないですね。

 

それで嘘を付いている神様は免職する様です。自分は神様では無いのでどう嘘を見破るのか分かりませんが嘘を付くと波動が下がると思うんですよね、つまりありのままでは良く無いから嘘を付くんですよね。嘘を付いて虚構を見せたい訳です。自分の事にしろ自分の行動、考え、行動の結果など自分でダメだと思うから嘘を付くわけです。自分はダメだと言っているのと同じで自分を受け入れる事が出来ない精神状態です。

 

この精神状態では「人」の波動にもなれないのではと考えます。ましてや「神様」の話ですからそんな精神状態の神様がいたとしてその神様のはどうは「人」以下の波動の高さになるのではと考えます。それでこれは神様に対してのお言葉だと思いますが同時に人に対しても当てはまる事です。「嘘」をついても神様には分かると言っているのだと考えます。

 

最後の遠国の神様でも綾部の大本に参りて下されたらですが物理的に綾部に出かける必要があると言っているのでしょうか?そうは言っても今の大本は教主争いをしていて教主が2人いるんですよね。自分でしたら波動の高さを調べてこちらと言えますが普通の人は分からないですよね。なんと言いますかお筆先元の大本ですら教主争いで分裂するレベルですから酷いものです。

 

それで明治の時代から続いて改心、改心とやっていたと思うのですが全く改心出来ていないのを見せています。どちらが本当の教主なのかさえ自分達で分からないレベルです。そんな綾部に出向いて行ってどうなるのでしょう。

 

遠国から来る神様の御霊が磨けているのか心配する前に綾部の大本の御霊が磨けているのかを心配した方が良いのではと思うのは自分だけでしょうか。

 

 

こちらからの引用です。

 

 

 

 

 

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