先日の朗読会で、朗読仲間のフランス人女性が紹介してくれた本。
こちら、後日自分で買った。
セネガルの有名なミュージシャン、ユッスー・ンドゥールが、自分の母親のレシピを紹介した本。
写真も素晴らしい。
音楽のことは何も書いておらず、完全に料理のレシピ本。
セネガル料理といえば、私はほとんど家庭の中でしか食べたことがない。つまり、私にとって第三の故郷であるセネガル(第一は日本、第二はフランス)の味は、セネガルにいるファミリーの女性たちが作る味と直結している。
たとえば、2年前、当時14歳だった娘が、私のためにゼロから作ってくれた料理、スープカンジャ。
オクラと魚の干物の入ったソースをごはんにかけて食べる、独特の料理だ。
改めてこの本で材料や作り方を読んでみるけれど、私にはとても再現できそうもない。そのぐらい、色々入っていて複雑な味なのだ。
ユッスー・ンドゥール自身、この本の中で、この料理が母の手料理の中で一番好きだと言っている。
フランスの同じ町に住むセネガル人の友人も、同様にこの料理が一番恋しいとのこと。
私は、チェブジェン(魚ごはん)とか、ヤッサプレ(鶏肉と玉ねぎソース)などのほうが食べやすくて好きなのだが、スープ・カンジャもセネガル家庭の味として、思い出の味だ。なんといっても、これを食べたとき、娘の父親で私の伴侶だった彼が生きていて、いっしょに味わったのだから。
料理には、個人個人の思い入れがある。ありきたりの一皿であっても、それはどこかの国で旅行中に食べた味かもしれないし、誰かの手料理かもしれない。
もう一つ、この本を見ていて思い出したセネガルの食べ物がある。
それは、こちらの魚入りの揚げ物。
私が向こうで食べたものは、家庭の中で手作りしたのではなく、近所で買ってきたもの。それを、当時まだ生きていた彼が好きで、子供に買ってこさせたものを一緒にかじった。
魚や野菜をつぶしたものがピリ辛に味付けされ、衣の中に入っていた。とてもおいしくて、この味は次回行ったら必ず食べたいな。
それにしても、セネガル料理というのは、準備にものすごく時間がかかる。日本の家庭料理とは対照的だ。
日本なら、豆腐やなめこでパパっと味噌汁が作れるし、冬なら白菜や大根、えのきだけがあれば湯豆腐など、油を使わずに簡単においしく食べられる。魚もトースターにアルミホイルがあれば、10分で焼けるし。
フランス料理は、バラエティ豊富なので一概にどれが家庭料理なのか一つ上げろと言われても、私にはよくわからない。普段はお惣菜屋でできたものを買うことも多いし、地域によっても大きく異なるし。
そんなわけで、今は再び仕事が忙しくて、ゆっくり料理する余裕がないけれど、また年末年始に日本で毎日台所に立っていたように、誰かに必要とされて毎日ご飯を作る、という日々を送りたいな。
そんな普通のことが、ありがたいと思えること。
そして、これまでこうしてごはんを作ってくれた母への感謝。世界中で毎日のご飯を用意する多くの女性たち(世界規模でみれば、台所に立つのはまだまだ断然女性のほうが多いだろう)・・・。
いつか人間は、自分で台所に立つことができなくなる日が来る。そして、やがて食べられなくなる日も。
セネガルの伴侶は、幸いにも亡くなる前日の夜まで、普通に食べていた。病気であちこち痛みもあって不自由してはいたけれど、最後まで食べることができたというのは、ある意味では幸せなことだったのかもしれない。
両親にも、最後までおいしくご飯を食べてほしいなと願う。