コリテというのは、ラマダン明けのお祭りのことで、セネガルではこう呼ぶ。

 

フランスのイスラム教徒たちも、この日はおしゃれをして町を歩いている様子を見かけた。

 

セネガルのファミリーのことを思うとき、1年前のコリテの時には、お父さん(一家の主で、私の心の伴侶)がいたことを思う。

 

1年前にそこに確かにいた人が、1年後の今、いないという事実。

 

最近暖かくなって、悲しみも癒えてきたかなと思っていたのに、1年前の日記を読み返して涙する。

 

割と元気だと思っていたのに、糖尿病の合併症の病状が悪化していった頃。普通に食べて、普通に話してはいたけれど、視力が急激に落ちて、体がむくみ始めていた。

 

それが、普段フランスで暮らしている私には、電話でのやり取りだけでは深刻さがわからなかったのだ。

 

5月下旬にセネガルへ行き、3週間近く過ごして、結婚もして、そして私が去った日から3週間後に亡くなった。私がフランスに戻ってしまったことを、彼は死にそうなぐらい悲しんで、そして本当に死んでしまった。

 

15年前も(当時は仕事の関係だったが)、日本に一カ月半滞在していた彼がセネガルへ帰る日、二人とも死にそうな気持ちで手を振った。まさかその後、音信不通になって13年も会えなくなるなんて思いもせずに。

 

・・・やはり、もう少し生きて、一緒に過ごしてほしかった。

 

今、春のフランスの近所を散歩するとき、この美しい景色の中を彼と歩く場面を想像する。一方で、出会った15年前、彼が元気で男盛りで歩いていた姿を思い出す。思い出は断片的だけれど、確かに彼はそこにいた。

 

その人が存在したという事実。そして、自分を愛してくれて、自分も愛していたという確固たる事実。

 

どんなに家族が大事でも、遠くにいる私を最後まで思ってくれたこと。

 

そして、今、彼の残された家族たちを思いながら生きている私。