『虚無の構造』・欲望について | くらえもんの気ままに独り言

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 さぁて、今年も昨年に引き続き西部邁氏の『虚無の構造』のまとめを不定期にお送りしたいと思います。


前回までのまとめはコチラ

『虚無の構造』

虚無についてhttp://ameblo.jp/claemonstar/entry-11929732472.html

気分についてhttp://ameblo.jp/claemonstar/entry-11960544096.html

生活についてhttp://ameblo.jp/claemonstar/entry-11962571929.html


 それでは、今回は欲望についての話です。さっそくいってみましょう。



第3章 欲望について―制御なき機械




Ⅰ.「欲望機械」へのフェティシズム


 現代人は過去の歴史の積み重ねに対して思いを馳せることなく、欲望の赴くまま、欲望に成されるがまま日々を過ごしている。そこには意思というものはなく、機械と呼ぶにふさわしいかもしれない。


 しかも、あらゆる選択を選び得るのではなく、意思がないのにもかかわらず既定の選択(技術礼賛etc.)をし続ける。もはや、それは選択とは言わない。自らの意思で選択をしないので責任感も生まれない。


 欲望を重視し続けたがため、その欲望自体が疲弊してきているのが現代の姿というわけです。



Ⅱ.選択能力の減衰


 人類は既存の価値や慣習を崩すような刺激性を追い求め続ける。しかし、刺激性は既存の価値や慣習が存在して初めて感じられるものであり、それらが崩れてしまったら刺激を感じることはできません。健康は病気が存在して初めて感じられるものって感じと似てますかね。


 つまり、刺激のみを追い求め続けると刺激を感じなくなるということでしょうか。


 そして、人類は刺激性の他に伝達性の強さも重視し、やはり既存の価値や慣習を軽視する結果となってしまいます。


 結果として、本来であれば既存の価値や慣習を土台として様々な欲望を選択できるはずなのに、限られた範囲の誰にでも目立つような欲望しか追い求めることができなくなってしまうのです。


 それでも、既存の価値や慣習がすべて破壊されたというわけではない以上は、選択能力の減衰は問題であるとされます。(完全に破壊されたら問題とすら思われなくなるから。)


 ハイデッガーの言うところの「時熟」とは西部先生によれば、近代、前近代、後近代の三世代の時代意識が平衡を保つことによって得られると、老年・壮年・青年の三世代によるコミュニケーションの場が会話・議論・討論によって活性化されていることが大事だと。まぁ、近代がその場を破壊してしまったため、問題が大きくなっていますが・・・。


 さて、生きるということは選択の連続で、物事を選択する際には固定された基準が必要で、その基準は歴史の積み重ねによって得られるものであるのですが、既存の価値や慣習を破壊してしまうと選択すること自体ができなくなってしまいます。しかし、それではもはや人間という存在であるかどうかが怪しくなってきます。


 刺激性や伝達性を追い求めるということは人間でなくなるということなのかもしれません。



Ⅲ.「飽和」の悪感


 豊かさによって欲望が満たされることによっても欲望は減衰してしまいます。これも一種のニヒリズムと言えそうです。


 しかし、実際には欲望が満たされることはありません。上記のような状態は「欲望観」が限界に達した状態と表現されています。


 欲望があるはずなのに、欲望が満たされたと感じてしまう。ここに問題がありそうです。自己とは何かという人間本来の問いも欲望のはずです。さらには、物質的に満たされていても国の公共政策に対する不満なんかはあるはずです。


 そう、欲望が飽和したなんてのは錯覚にすぎないのです。


 欲望は私的な物欲・金欲のことだと思うから欲望が飽和したと錯覚し、ニヒリズムに陥ってしまうというわけですね。


 ニヒリズムからの脱出法は公共のことに思いを馳せるということも一つの手段ということかもしれませんね。



Ⅳ.活力の減退


 しかし、勘違いしてはいけないのが過剰に平等を追い求めるのは公共的なことではないということです。こういうのは社会的欲望と言い、私的な欲望の延長にすぎないわけです。(あくまでも平等と格差の平衡が大事です。)


 過剰な平等は人々から活力を奪います。自由と秩序、平等と格差、友愛と競合という3つの価値のバランスがとれた状態が活力の基盤となるのであって、そこに公共心も生まれるのです。


 現代はネオリベ・グローバル思想に汚染され自由・格差・競合に傾いており、公共心が失われ、結果として活力の減退へとつながっております。


 市場原理主義が市場から活力を奪い去るというのも皮肉な話です。


 左翼的な平等主義を追い求めたり、技術礼賛の快楽主義を追い求めたりと、公共心の「こ」の字も出てこなかった近代。結果として公共心は衰弱し、現代では規制緩和だとかグローバルだとかがそれ以上に公共心を破壊しまくっている始末・・・。


 公共心とはなんであるかというのも歴史が教えてくれるのかもしれませんが、大事なのはそれがなんであるかを問い続ける事。


 日本人・東洋人の問題はニヒリズムに陥っていることを許容しがちになることと西部先生は言いますが、ニヒリズムに対抗するには自己の解釈を推し進めるための活力が必要になるのでしょう。


 ところが、現代の日本ではその活力を喜んで手放そうとしているという・・・。


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