『知性の構造』・学際研究の可能性 | くらえもんの気ままに独り言

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 現代社会の閉塞を解くカギを求めて『知性の構造』に手を出したわけではございますが、どうやら私と西部先生とでは頭の出来がかなり違うようで、たいへん苦戦しております(;^_^A


 さらっと読んだだけでは理解できないため、個人的なまとめとしてブログを書いております。お見苦しい点があるかもですが、ご容赦ください。と言いましても日本語で書いてあるはずだから、頑張れば分かるかな?よし、頑張りましょう。


 というわけで、今回で第4回目になりますこのシリーズ、気長に少しずつやってまいろうかと思います。ちなみに前回までのおさらいです↓


第1回http://ameblo.jp/claemonstar/entry-11852064051.html

第2回http://ameblo.jp/claemonstar/entry-11855187261.html

第3回http://ameblo.jp/claemonstar/entry-11857103522.html


今までのまとめ

・知識人が腐ってきている、このままではヤバイ

・人間は真理を追究するようにできており、それを紡ぎ出すのが「言葉」

・真理の追及には信仰・懐疑・感情・論理のバランスが大事

・いかなる表現も仮説である

・仮説は棄却されにくいが、真理をつかむための方策があるはず


 それでは、本編まいります。


第三章『学際研究の可能性』


「専門主義の弊害は顕著である―

なのに、誰もその蛸壺から出てこようとしない。(P63)」


 経験的事実は複雑な形をしているのにもかかわらず、その一点だけを見るように単純化するのが分析主義であり、専門主義へとつながっていきます。しかし、現実にはその一側面を客観的に取り出すことすら不可能。なぜなら、人間・社会は主観で動きますんで(;^_^A


 合理的経済人(合理性に基いてのみ行動する人)なんてものを想定しても人間は合理的経済人ではないということですね。


 そもそも経験的事実というのはどんな形をしているか分からないので、専門主義的なことはやりようがないのですが、一側面を捉えようとするならば、それを補完するためには他の分野のことについても把握しておく必要があるのです。


 ちなみに専門主義者が総合的なことをやるのを面倒くさがるため、自分の分野がその他全ての分野の基礎をなしていると考えることがよくあるらしいです。(経済学に顕著なようで、経済学の基礎の上に政治学とか社会学とか文化学がある的な考え方を経済学帝国主義と言うそうです。)


 そんなことをやったところで、経験的事実の一側面しか見ることができないことに変わりはないのですが、他の分野も○○学帝国主義をやり始めるものだから、事態は混乱を極めているわけでございます。


 よって、分野間のつながりが薄くなり、各分野で共通する守備範囲もだんだん狭くなっていくのです。結果としてコミュニケーションの不足に陥っていくというわけですね。


 学際的な研究をやるには共通の基礎論、共同作業の基盤というものが必要なのにもかかわらず、それがないままやろうとするのは、本書の例を借りれば、異教徒同士が同じ屋根の下で暮らそうとする暴挙に似ているということ。


 というわけで研究者が自己の専門領域を超えて他の専門の考え方や考えの成果を学び取り、幅を広げていくことが必要になるわけです(超学的研究)。(そういえば京大の藤井聡先生なんかは土木工学だけでなく社会学・心理学・経済学・哲学などにも視野を広げられていますね。)


 ちなみに超学的な取り組みは共通の基礎論(言語論的・記号論的な性格)に立脚し、重複研究が可能な形となっている必要があるようです。


 そして、経済学・政治学・社会学・文化学に共通した基礎論に基いて、包括的な研究が行われ、またそれぞれの学問の独自の研究もこれに立脚して行うことで超学的研究が可能になるというわけでございます。


 この超学的研究により共通の基礎論、共同作業の基盤が構築され、その上にようやく学際的な研究が可能になってくるというわけですね。当ブログでは医学と経済学のことについて書いたりするわけですが、医学者は経済学のことを知って、経済学者は医学のことを知って初めて、共同作業が可能になるといったところでしょうか。


 超学的研究の上に学際的研究が必要となる理由は追い求めている事実が時間とともに変化するからであり、学問としての論理構築は超学的研究で行うとしても、その先の事実を追い求めるためには「思想」の力が必要となってくるためです。静的なものを捉えるのが学問で、動的なものを捉えるのが思想ということでしょうかね。


 人間は世界を言葉によってとらえるわけですが、それは混沌に囲まれた人間が言葉によって秩序を形成することと同義です。ここでは世界を外面性・内面性時間性・空間性の4つの尺度で表してあります。


外面性・時間性未来という名の混沌←計画的決断により秩序化(政治学・権力)

外面性・空間性自然という名の混沌←技術的計算により秩序化(経済学・貨幣)

内面性・空間性身体という名の混沌←象徴的意味付けにより秩序化(文化学・価値)

内面性・時間性過去という名の混沌←慣習的反復により秩序化(社会学・役割)


 上記の例は社会科学的な側面からのアプローチになりますが、こうやって混沌を言葉によって秩序化することによって事実の全体像・世界を捉えていくというわけですね。


 そして、社会科学―文芸研究自然科学―経験知歴史研究―心理学の六方向からのアプローチにより事実の全体像が捉えられるわけですね。(といってもこんなに複雑な構造を認識しながら表現をしていくというのは難しい話なのですが、要は専門主義に陥っていては事実は見えてこないということを西部先生は言いたいわけでございます。)


 もちろん社会科学的アプローチにしても文芸研究、自然科学、経験知、歴史研究、心理学の影響を受けていきます。


政治学・権力心理学経験知を加えながらのアプローチ

経済学・貨幣自然科学経験知を加えながらのアプローチ

文化学・価値歴史研究自然科学を加えながらのアプローチ

社会学・役割歴史研究心理学を加えながらのアプローチ


 各学問は別の学問からの影響を少なからず受けており、その多種多様な学問・知識をおおまかにまとめあげるのが「思想」というわけでございます。


 それが、専門という名の蛸壺に籠ってしまうと、他者にとっては意味不明な言説を吐き続けてしまう結果となってしまうわけですね。


 専門主義者は「木を見て森を見ない」どころか木を鉄の棒と見たり、ガラスの棒と見たりするそうで、そういえば何かの動画で佐藤健志さんが言ってたんですが、目隠しさせて二人の人に象のごく一部だけを触らせて、それが何かと聞くとお互い全然別の答えを言ったそうです。物事の一部だけ見てもそれが何なのか分からないということですね。


 現代社会では常識と呼ばれるものが日々変わっていくわけですが、専門主義に陥ると、その常識はマスコミが作った流行にすがるしかないわけで、かくして現代の知識人たちはマスコミ世論に迎合していくこととなったというわけですね。


「現代人の会話は、自分の関わっている仕事の話に終始するか、もしくはマスコミ世論の提供した話題に確認するのにとどまるのであろう。(P79)」


 うっ・・・。耳が痛い・・・(^o^;)。 


 というわけで、今回のまとめの図。結構ビジーになってしまいました(;^_^A


学際研究の可能性
 事実へ向けてのアプローチですね。(形式的に球状のものを書いてますが、実際には事実はどんな形か分かりません。)

 外面性・内面性時間性・空間性の4つの尺度からトータルに見た社会的言語(貨幣・権力・価値・役割)によって事実へと向かっていくわけですが、ここで重要なのは単一の専門分野からのアプローチでは事実がどんな姿をしているか捉えることができないということかと思います。


 経済学しか知らない人は経済学を知らないということに等しいのではないか、なーんて思えますね。主流派経済学者のみなさん。


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