はじめに

 

この度の台風で被害にあわれた方に心からお見舞いもうしあげます。

 

私の住む地域が水害にあったのは、平成17年の台風14号でした。

五カ所の堤防が決壊して、我が家は道路より少し高くなっていたので、床下浸水で済んだのですが、車は水没して避難が遅れ、ボートで救助に来ていただきました。

病気の義父とその介護をしていた義母を残していくわけにもいかず、説得している間に堤防のギリギリまで水が。

少しの裂け目からあふれた水が、瞬く間に道路を覆っていく様子は恐怖しかなかったです。この災害は、地域が激甚災害の指定を受けて堤防、道路の整備が整うことにつながっていきました。

 

とは、いえ今回のような台風が来たら、我が家も保証はありません(築40年の老朽家屋)。家屋はどんなに補強しても、ひとたび災害になってしまったら脆いものです。まずは早い時期の避難で、命を守る、ライフラインの復旧までにしのげる最低限度の水と食料の用意を備えるべきだと痛感しています。

 

 

 

 

ここから今回のネタ

 

ロックバンドが大きな成功をつかむための要素には何が必要だろうか?

 

  • まずはコレ → ヒット曲がある。
  • カリスマ性に秀でたメンバーがいる。
  • メディア露出でも十分耐えるだけのビジュアルがある。
 
パッと思いつく限り書いてみたけれど・・・
 
この大きな成功をつかむというところがキーワードで、成功し続けなければならない、一発ヒットで終わらないというところが肝心なのである。
 
では、本人たちの才能、努力だけでその願望が達成できるかというと、
 
NO
 
達成のためには、時代のタイミング、プロモーションする人間達の質も大きくかかわってくる。私はこのSWEET(スゥイート)というガーリーファッション系の雑誌みたいな名前のバンドの栄枯盛衰を見るにつけ、そのことを考えずにはいられない。
 
今回は、同じ1970年初頭から活躍しながら一方はスターダムへの道を邁進したクイーン。
一方は数々のシングルヒットを飛ばしながらも、ついにオリジナルメンバーの時にはそのバンドとしての音楽性を認められなかったSWEET。
 
まさしく、明と暗を分けたこの2大バンドは、しかしその一方で共通性も持ち合わせている。
 
彼らのバンドとしての変換をおりまぜながら自分なりに考察してみたいと思う。
 
 

って書くとスゴイ記事のように思えるけど大したことないですニヤニヤ

 

 

 

 

誕生

 
 
左から
ミック・タッカー (ドラムス)
スティーヴ・プリースト(ベース) 
アンディ・スコット (ギター)
ブライアン・コノリー(ヴォーカル)
             
1968年、ウェインライツ・ジェントルメンというバンドにいたブライアン・コノリーミック・タッカーが、ギタリストのフランク・トービィーとともにSWEETを結成する。
直後にフランク脱退。
他のバンドにいたスティーブ・プリーストが加入する。
このウェインライツ・ジェントルメンというバンドは、後にディープ・パープルの一員になる前のイアン・ギランとロジャー・クローバーがいた。ヴォーカル担当のイアンが別バンドに入るために辞めた後、入ってきたのがブライアンだった。
 
結成当時はSWEET SHOPという名前だったらしい。
SHOPを取っちゃって正解だった。
 

 

 

1968年7月シングル「スローモーション」でデビュー。4枚のシングルを発表するも売れず、1971年にRCAに移籍。

 

ミック・タッカーのヘアスタイルが気になってしょうがない。

 

一方、クイーンは?

 

 

ブライアン・メイとロジャー・テイラーが活動していたスマイルからティム・スタッフェルが脱退後、フレディ・マーキュリーが加入してクイーンが誕生する。バンドの結成は1970年だったものの正式なベーシストが不在だったため、1971年2月、ジョン・ディーコンが加入して再スタートをきる。

この時点ではまだ、クイーンとしてのレコードリリースはなかった。

 

初のアルバム「戦慄の王女」に先駆けて、「炎のロックン・ロール」がシングルカットされたのは1973年7月だった。

 

かわってSWEET

 

RCAに移籍したあとの彼らを待っていたのは、二人のヒット・メーカー。

 

マイク・チャップマン&ニッキー・チン

 

左がチン、右がチャップマン

 

実は、この二人がその後のSWEETのアーティストとしての運命を良くも悪くも変えてしまうのだった。

 

このコンビが作り出す曲はバブルガムとかティニーホッパーと呼ばれ、10代の少年少女がターゲットだった。

くどいくらい同じ言葉の繰り返しや、単純だがインパクトのあるビートが今じゃ考えられないくらいウケていた。

 

 

彼らはスージー・クアトロやマッドの曲を手がけた。スージーは、ガールズバンドからコテコテのハードロックにイメージチェンジしたものの、もともとがキュートでかわいい系なので、チャップマンとチンは曲作りに苦労したとか。

 

チャートが上がるなら何でもアリで、スティーブ・プリーストの自伝によると、ニッキー・チンはプロデューサーとマイク・チャップマンを全国の販売店に送り、スゥイートの新しいリリース盤を大量に購入させた。

 

そして、それをテムズ川に投げ捨てた。

 

日本でもあったな、アイドルのCDを特典会目当てに買い込み山中に投げ捨てたって事件が・・・

 

1971年、チャップマン&チンのコンビ第一弾「ファニー、ファニー」は、英国チャートで13位まで上昇。

 

 

 

 

 

SWEETが初ヒットを飛ばしていた頃、クイーンはあらゆる会社を駆けずり回り、レコーディング先を探していた。

この頃の事をフレディは「デモテープを作ったとたんにサメが寄ってきた」と表現している。

「君たちを第二のT・レックスにしてあげよう」なんて言葉に簡単にとびつかないように用心に用心を重ねていたというフレディの姿勢はある意味正しかったと言える。

 

SWEETがその後、はまり込んだニッキー&チンのヒット量産型の独占体制は、もともと作詞作曲の才能も持ち合わせている彼らの出る幕を奪っていた。

 

 

フロントマン

 
 
フレディ・マーキュリー(1946~1991)
9月5日  ザンジバル島 ストーンタウン生まれ
45歳没
 
ブライアン・コノリー(1945~1997)
10月5日 イギリス グラスゴー ゴーヴァンヒル生まれ
51歳没

 

この二人、似ていないようで似ているところがある。

 

フレディは、両親には恵まれたが8歳で全寮制の寄宿学校に入らされ、10年近くを親と離れて過ごさねばならなかった。

10代の頃から、複数のロックバンドに所属してヴォーカルとピアノを担当した。

ブライアンは、父親は不明で10代のウェイトレスの母親が彼を出産した後、病院に置き去りにする。そのため、彼は養子に出されたが、後に自分が俳優のマーク・マクマナスの異母兄弟と知る。中等学校を卒業後、商船海軍の軍人になり、1963年に退役したあとは、ジェネレーションXなどの地元のバンドでヴォーカルとして活動する。

 

 

子ども時代の多感な時期を親不在で過ごしたってことは、少なからず二人ともその後の人生に何らかの影響があったのではないか。

 

二人とも、ラジオから音楽を学んだ。

 

フレディは、ラジオから聴き取った音楽を即興でピアノで弾ける能力があった。

ブライアンも、その歌声が評価されて、友人や家族のために歌う事を求められた。

 

苦悩の末の放蕩や飲酒。

 

フレディは名声を得たが、自分の性的なマイノリティーに苦しみ、衝動的な行動をおこすことがあった。1991年彼はエイズに蝕まれ、亡くなった。

 

ブライアンは、1974年に、暴力事件にまきこまれ喉を殴られたことで高い声が出なくなった。1970年代の後半になると、人気の低迷とともにアルコール依存症の症状が顕著になり、まともなライヴ活動ができなくなる。

他のメンバーとの仲たがいもあって、1979年にバンドを去った後は、病気の体をおして、ソロや自身のバンドで活動した。

1997年、長年の過度な飲酒のため肝不全のために亡くなった。

 

 

レインボウ・シアター

 

クイーンのライヴの一年前、すでにSWEETはレインボウ・シアターでライヴをおこなっている。すでにTVでは、トップ・オブ・ザ・ポップスの常連であった。

「シーン 全てのきらめき」という彼らのドキュメンタリーには、1973年12月21日に行われたライヴの模様がおさめられている。

 

しっかし、観客が若い。若すぎる笑い泣き幼稚園児みたいなのがノリノリ

 

 

アンディズSWEETのyouTube動画より

 

彼らのライヴの始まる前には少し長めのオープニングSEがあるのだけれど、この時の映像がちょっとアレで。おまけにBGMがストリップダンサーが出てくるアレ・・・

で、ティーンエイジャー相手にこの演出もスゴイなと思う。

「ヘル・レイザー」の高音部分、綺麗に声がでてます。

 

 

ブライアンのマイクスタンド放り投げのパフォーマンスもアコースティックナンバーのコーラスもミックのドラムソロもクイーンを意識してのことかな。どっかで彼らのライヴを観たか。

 

そして、最後のシーンの出待ちの女の子たちときたら・・・

 

一年後のクイーンのレインボウのVTRにこれはなかったな。

1975年来日時のブライアン・メイの日本へきてビックリのコメントの意味がようやく

わかった。

 

この時点では、クイーンはSWEETに完全に先を越されていた。

 

しかし、ルックスはいいのにロンドンのティーン達がクイーンに食いつかなかったのは、やはり音楽性、歌詞の難しさだったのかな。

それが、逆にクイーンにとっては功を奏した部分もあったかも。

 

ファッション

 

クイーンとSWEETのステージ衣装を語るうえで最も異なっているのは、洗練されているか否か。クイーンが「上品、高級感」ならSWEETは「下品、安っぽい」だろう。

いかにもグラム・ロック然としていたのはSWEETの方なのに。クイーンはデビュー当時「グラム・ロックの残りカス」と酷評されていた。ちょっと出遅れただけでカス呼ばわりだったのね。

 

濃い化粧と、チープな衣装はSWEETとしても不本意だった部分もあるという。

 

最もスゴイ衣装だと思ったのはコレ

 

もはやどこの国の人かわからない。

 

右の衣装が問題引き起こしたのは一目見ればわかる。ハーケンクロイツではね。

 

 

 

お口直しなさいませデレデレ

 

 

ヒットメーカーからの解放

 

 

毎年、ヒットを飛ばしてきたSWEETにとって1975年は節目の年であった。

 

この年は、クイーンにとってもボヘミアン・ラプソディ爆発前夜。

初来日も果たし、いよいよ「オペラ座の夜」のレコーディングを開始するという勝負の年であった。

 

そんなクイーンを意識していたのか(実際、SWEETはハマースミス・オデオン・ライヴに衝撃を受けている)

彼らは、チャップマン&チンの呪縛から離れて自分たちで曲をつくろうとしていた。

大酒も飲んできた(ここだけの話。薬物も)ファンの女の子たちとの○○な行為も芸の肥やしと思ってやってきた。

しかし、いつまでもシングルヒットだけでは、バンドとしての価値はない。

アルバムをしっかり作っていこう!

 

そんな思いにさきがけて作ったのが、「フォックス・オン・ザ・ラン」

 

英国2位、アメリカ4位までチャートを上昇した。

 

メンバー4人の共作であった。

 

そんな彼らの集大成が1976年リリースされたアルバム 

Give us A Wink(邦題 甘い誘惑)

 

 

 

このアルバムからのシングルカット「アクション」が爆発的に売れた。

 

この曲歌詞はティーンのアイドルという立場に甘んじていたSWEETの本物のアーティストになりたいという欲望が込められている。

フレディの「デス・トゥ・オン・レッグス」は、トライデントのオーナーに向けられたものだが、過去の自分たちへの決別って意味では似ているところがある。

 

クイーンの2度目の来日のこの年の8月、SWEETは初来日。

 

 

「クイーンのライバル?」として騒がれた。

 

クイーンの来日ポスターよりセンスいい

 

 

ナンバーは「初恋の16歳」アンディのギター・ソロが聴かせます。

 

そして、それぞれの道へ

 

1978年、「Love Is Like Oxygen」(邦題 愛が命)が英国で9位、アメリカで8位になったのを最後にスゥイートの人気に陰りが見え始める。

 

同じ頃、クイーンは7枚目のアルバム「JAZZ」をリリース、ヨーロッパツアーも成功し、後に黄金期と呼ばれる時代を迎えていた。

 

 

 

それに比べるとSWEETのメンバーの中には、寒々しい空気が流れていた。

ブライアンのアルコール依存症の症状はますます顕著になって、もはやステージ上で

まともにヴォーカルをつとめることができなくなっていた。一曲歌っただけで、ステージ上から引きずりおろされることもあった。

 

ブライアンを解雇して、レインボウのフロントマンであるロニー・ジェイムス・ディオを後任にしようという話も持ち出されていたそうだ。

 

あのロニーが、「初恋の16歳」を歌う・・・・ってあり得ん。

 

 

結局、ブライアンは1979年にSWEETを去り、ソロ活動に入ることになる。

 

ブライアン脱退前から、アンディとスティーヴは彼の代わりにヴォーカルを担当していたが、彼が去ってからミックと3人でAOR(アダルト・オリエンティック・ロック)

言うなれば、大人向けロックのアルバムを3枚リリースする。

 

 

 

ボサノバ調のリズムにほんのちょっぴりバブルガム時代の香りが・・・・

 

 

うーん

 

 

売れんな これはニヤニヤ

 

実際、ヒットすることはなく1982年にSWEETはついに解散する。

 

 

しかしそれから3年、時代の風は突然吹いてくる。

1985年「It's the Sweet Mix」というダンス・チューン曲がヒットしたのだ。

 

 

 

 

すごい編集で、聴くに耐えないシロモノだと思うのだが、これに勇気づけられたのかブライアンが新生SWEETを結成する。

 

その翌年、アンディとミックが負けじと一時的にSWEETを結成。

 

同じ名前って言うのは権利的に問題が生じると思うのだが、この時から、二つのSWEETが存在することになった。

 

 

Andy Scott's Sweetのライヴ

演奏はなかなかのものだと思うが、やはり80年代感がぬぐえない。

このヴォーカルのお兄さんのいでたちが、飲み会で出来上がったお父さんにしか見えない。

 

しかし、実はこのライヴ会場であるマーキー・クラブ・・・ふふふ

 

そうです。

 

1973年EMIとの契約後、マスコミにお披露目された時にクイーンが出演したクラブなんですね。

 

 

 

片やクイーンは成功者だからこその苦しみも味わっていた。

 

 

1984年には、南アフリカのサンシティでライヴをやるというだけで、音楽家の組合から人種差別に加担するのかと抗議を受けた。

1985年には、南米のリオのライヴで一部の観客と警備員の衝突が暴動となり、物を投げられ、一時的にライヴを中止しなければならなかった。

フレディはこの騒ぎがブレイクフリーの女装に抗議したものだと思い、ショックを受けたらしい。

 

バンドが成熟していけば、いくほど軋轢も大きくなるのだと感じる。

 

ブライアンのSWEETは1987年に活動を終えるが、ミックとアンディのバンド活動は91年結成のAndy 's Sweetにつながっていく。

 

 

AORから80年代ロックからのまさかのヘビィメタル。もとアイアンメイデンのメンバーもいるから当然と言えば当然か。

ヴォーカルはこれまた元ヘビメタバンド、ハザードのマル・マクナルティ。

でも、この曲の内容「ダンスホールの中で狂乱する男女の意味不明のやり取り」から考えると、カオス的な歌詞ということでヘビィメタルにピッタリなのかも。

 

 

 

 

SWEETというバンドの名称を使い続けることについて、ブライアンとアンディの間には法的な争いがあったが、それぞれConnolly's Sweet 、Andy Scott's Sweetと名乗ることで問題を解決した。

 

1994年、ブライアンはスティーヴ・プリーストの娘の結婚式で二人は一緒に演奏したりして、離れても心はつながっていた。

 

ブライアンは1995年にConnolly's Sweetを再結成した。

 

1996年12月5日にブリストル・ヒッポロドームでスレイドⅡ達とライヴしたのが最後となった。

 

また4人が集まって、同じステージに立つことを期待していたファンも多かったが、

1997年、ブライアン・コノリーは51歳で帰らぬ人となる。

 

また、2002年には白血病のため、闘病を続けていたミック・タッカーが54歳で亡くなる。彼は肉親から骨髄移植を受けていたが、完治することはなかった。

容態が急変して入院した日は、ブライアン・コノリーの命日だった。

 

 

 

ロンドンのマーキー・クラブでのドラムソロ(1986)

これを見ると、やっぱりSWEETってただのアイドルバンドではないと思う。

 

 

継承する仲間たち

 

 

考えれば、死の間際まで衰えないアーティストとしての魂はフレディと共通するものがある。

 

ブライアンの死後、アンディだけでなく、スティーブ・プリーストもSWEETを結成し、オフィシャルサイトをもち、それぞれにライヴ活動を続けている。

元のメンバー二人が、同じ名前で二つのバンドを持つというのは、珍しいケースだと思う。

ライヴの中身を見ると、アンディは演奏重視。スティーヴは、演奏もだけど昔のようにはじけようぜ!という意気込みが感じられる。

アンディは、公式サイトでバンドの経歴や曲の専門的な解説をしている。日村に似ているけどこの人、メンバーの中で一番好きです。

 

でも、スティーヴのSWEET、ヴォーカルがヘタである。もうちょっと何とかならないか。

 

Andy 's Sweet

 

Steve 's Sweet

 

 

ブライアン・メイとロジャーがアダムとともにクイーンを継承しているように彼らもSWEETを決して忘れないという思いにあふれている。

 

 

 

 

しかし、思うにSWEETというバンドはつくづくプロモーションに恵まれていないバンドではなかっただろうか?

グラビアアイドルのようなフォトは山ほどあっても、ライヴのフォトはあまり撮られていない。2度来日していてもまともなライヴ版も出されていない。

人が書いたシングル・ヒットを歌い続けているうちに自分たちの音楽に目覚めていくのだが、人気に溺れた破天荒な生活の影響は後々まで彼らの活動をおびやかした。

 

 

ブライアン・コノリーにフレディほどの意志を貫く強靭さがなかったといえばそれまでだが、その時々のタイミング、人間関係、何に重きをおくかというメンバーの意志

ほんの少しずつのズレが、クイーンとSWEETを分けてしまったような気がする。

 

 

しかし、今でも彼らは自分たちの物語をつなぎ続けているというのはまぎれもない事実である。

 


どうしたって過ぎていく時の中さ


止まっても運ばれいく時の中さ


同じ時代を歩いていく僕たちさ


物語をつないでいく僕たちさ


同じ時代を歩いていく


物語をつないでいく

        ASKA-同じ時代を  

 

 

 

 

参考文献・サイト

 

スティーブ・プリースト自伝  Are you ready、Steve?

Wikipedia「SWEET」「Brian connolly」

 

classic Rock The Sweet: is it finally time to give them the credit they deserve?

 

THE SWEET

 

Alan Savage Interviews The Sweet’s Brian Connolly (May 1989)

 

栄光の70sグラムロック

 

他モロモロ

 

長いことおつきありくださり、ありがとうございます。