1962年。東宝。”Sono Basho ni Onna Arite",

 鈴木英夫監督・脚本。

 大手広告代理店の企画営業を担当する律子(司葉子)がライバル会社とのし烈な競争にほんろうされながら過ごした一年間の愛と人生を描いた物語。1962年という今から56年前の時期にこんな映画が製作されていたということが、驚きだった。

 律子を取り巻く女性たちの物語が、広告会社という当時女性を一人前の人間扱いしているとは思われない環境の中で奮闘する姿を、時にはクールに、時に暖かいまなざしで描き出す鈴木監督の演出と脚本は素晴らしい。早すぎたフェミニストだったのかも知れない。

 男勝りで勝気なリーダー格の祐子(大塚道子)、ダメ男のイケメンにばかり心奪われるコマンチことミチコ(水野久美)、社員相手に高利の金貸しを営むヒサエ(原千佐子)など個性的な女性たちの群像劇が脇のエピソードとして語られる。

 物語は西銀広告の大きなプロジェクトを任された律子と、それを手段を選ばずに奪い取ろうと画策するライバル社、大通広告の坂井(宝田明)との闘争の物語となっている。

 戦いの中で坂井はいつの間にか、律子に恋してしまっていた。律子もまた坂井に心を乱される。しかし、目的のためには手段を選ばない広告会社の社員である坂井は、ある卑劣な手段でプロジェクトを奪い取ろうと企てる。

 60年近く前の映画でありながら、日本の会社がやっていることには昔も今も何も変化がなかったという失望と驚きが同時に訪れる。

 クライマックスで、改心したかに見えた坂井(宝田明)が電話で律子(司葉子)にもう一度会ってくださいと懇願する。何の感情も現わさずに律子は、「街でバッタリ会ったら、またお酒でも飲みましょう。」と冷たく言い放つ。そして「さようなら。」とつぶやく。坂井が「えっ?何とおっしゃいました?」と聞き返すと、「さようならと言ったのよ。」と言って電話を切る。このホラー映画も真っ青の戦慄の場面には背筋が凍る思いがした。二人は永遠にバッタリ会ったりすることはない、というヒロインの意思表示は強烈だった。女性の自立という概念もまだなかったと思われる時代にこんなすごいラストシーンを作り上げた鈴木英夫と司葉子との二人には完全にノックアウトされた気分だった。

 

山崎努が持ち前の嫌味でうさんくさいキャラクターで登場して物語に一波乱を引き起こす。浜村淳は意外に優秀な広告制作者役。律子の姉の森光子がダメな女を好演、森光子のヒモ亭主役で児玉清が登場するが背が高いだけで影が薄かった。

 ロケーション撮影も多用されているので当時の東京の風景がたくさん見られるところも面白かった。信号待ちをする人々の様子や、ビルディングの並び、街の看板類、道路事情など、風景を眺めているだけでも新鮮な喜びがある作品だった。

  "# me Too"運動が世界中を席巻しているニュースを見ているときに、ふと日本映画の名作とされているあれやこれやが、すでにアウトな存在になりつつあるような不安を感じた。小津安二郎の映画のあの場面やこの場面は"# me Too"の視点からみると完全にアウトではないのか、思えば原節子は小津映画を心底から嫌悪していたというエピソードが評伝で語られていたりもした。

 人間としては最悪の差別主義者だったらしい溝口健二監督の映画には"# me too"に引っかかるようなシーンが思いつかないどころか、女性賛歌の側面ばかりが想い出されるのも不思議な気がする。

 鈴木英夫という監督は近年再評価され始めた演出家で、他に山崎努主演の和製フィルム・ノワール『悪の階段』が面白かった。