前回の続きとなります。

 

 

引き続きコリン・コバヤシさん著『ゲランドの塩物語 ─未来の生態系のために─』です。

 
 

 

一応、前回で一通り紹介していることになるんですけど、この本はあとがきにも大事なことが書かれています。

やはり、本というのは著者の癖が出やすいもので、飛ばしてしまいがちなあとがきも見逃せなかったりします。

むすび

生態系をめぐる思想

ゲランドの塩物語は、同時代の思想や運動の成果と深いかかわりがある。そのなかで、キーポイントと思われる問題点を提出して、むすびにかえたい。

私にとってまず再検討が必要だと思われるのは、社会建設のための基本的な方法論である。現代社会の多くの破局は、計算を誤って、たまたま悪い結果が出たというより、方程式のたて方そのものに誤りがあったのではないかという点である。その意味で、現代の科学技術の果たす役割や責任はきわめて重要である。 研究の目的や影響を厳密に問うことなく、産業開発を推し進め、公害などの悪い結果が出てくると、それを解消する科学技術的研究をさらにおこなうという具合に、悪循環の繰り返しをする。そして科学技術は生命の現実からかけ離れ、人間や自然との照応関係を喪失している。

エコロジーは、日本でも一九八〇年以降、ブームといっていいほどであった。しかし、それは単なる自然愛護のことでもなければ、動植物愛護のことでもない。 生態系を守るということは、生きとし生けるものの包括的諸関係をほどよく維持してゆくことであって、ある特定の部分のみを保護したり、排除したりすることではない。また生態系を守るべき人間が自分自身のことを理解する努力を怠っていると、人間自身がその一部分に過ぎない自然とそのシステムである生態系、そして社会との関係を把握できないことになる。

<中略>

フランスでは、アンドレ・ゴルツとミッシェル・ボスケの共著『エコロジーと政治』(一九七五年)が、従来の左翼思想に限界を感じていた新しい世代に大きな波紋を投げかけた。ゴルツ/ボスケは、イヴァン・イリイチの思想に寄り添いながら、 産業社会のあり方に根底的な疑問を投じ、無限成長の経済発展主義的資本主義に死を宣告した。資本主義の危機は、生産が追いつかないのではなく、過剰生産にあることを看破していた。生産主義社会が公害を生み出し、経済合理性が貧富のはなはだしい落差と消費の画一性を増長すると警告を発したのである。ちなみに彼らが当時提唱した労働時間の短縮による富の再分配も、四半世紀後の今日、フランスでは週三五時間労働制が導入され始めて、やっと実現の可能性が開けてきた。

繰り返し言いますが、DS主導による行き過ぎた資本主義経済は食料自給率を奪い、環境を破壊してしまいます。

また、遺伝子組み換えや過剰な食品添加物のせいで健康を害する人が増えています。

また雇用体制や税金にまで連動しています。

働いても税金を搾取され続け、給与が増えないどころか仕事がブラック化し、精神的ゆとりが持てない、とても手間のかかる料理なんか作る気力もない。

だから加工食品やファーストフードで済まそう。

こうしてどんどん心も体もボロボロになっていきますね。

まさに負のスパイラル。ちっとも、豊かで幸せになりえない社会です。

このシステムは誰得なのか?と言うとアメリカであり、DSなのです。

一番美味しい思いをする側からしてみれば他の国なんて搾取するための奴隷でしかないんですよ。

三つのエコロジー

ここでは、一九九二年に急死したフェリックス・ガタリに注目しておきたい。ガタリはフランスの精神分析医で、知的概念の精度化そのものよりは、社会実践論としての言説を重点的に展開した。 フランスの緑の党員でもあり、社会運動家だった。ガタリはジル・ドゥルーズとの共著 「アンチ・オイディプス』(一九七二年)という、資本主義と分裂症について論じた大著で名を馳せていたが、八九年の彼の最期のマニフェストというべき小さな著作『三つのエコロジー』で、「エコゾフィー」という新しい概念を提唱した。精神的エコロジー、社会的エコロジ―、環境的エコロジーの三つの領域を節合したものが「エコゾフィー」である。

エコロジーの語根エコは、ギリシャ語のオイコスからきており、家屋、住居、財産、生活環境を指す。ガタリは、そのようなニュアンスを込めてエコロジーを語る。集団における個人を個々人として成り立たしめる「特異性」を重要視しながら、社会改革をおこなうための実践論として、心の生態、社会の生態、環境の生態が包括的に機能しあってこそ、真の社会変革の実践が可能になると主張したのである。

<中略>

「三つのエコロジーは、ひとつの共通の美的・倫理的な領域に属するもの、いわば一つにつながりあったものとして構想されねばならない。······諸個人は他者にたいして連帯的であると同時に、他者とますます異なった存在にならねばならない」とガタリは主張する。こうした「社会的実践、美的な実践に参加してゆくためには、人間の思索的な想像力のある強度の敷居を超えなければならない」ことになる。それは、あらゆる「価値体系の基盤」を不断に問い直していくことでもある。

 

フランスの動き

<前略>

八六年に起こったチェルノブイリ原発事故は、高度産業社会の裏側で刻々と進展している事態を象徴的に表わした事件だったというべきだろう。フランスでは、チェルノブイリの雲は通過しなかったと報道されたが、その後、ドイツ国境地帯のジュラ地方やコルシカ島に放射能が検出されるに及んで、報道管制が敷かれていたことが明るみになった。やがて、ベルリンの壁が堕ち、ソ連が崩壊して、五五年体制が完全に崩れ、世界情勢の急激な展開は、今日のグローバリゼーションの前奏曲だった。そして九〇年の湾岸戦争は、そうした世界の新しい地政学的布置を示すものだった。「クリーンな戦争」であるはずが、現実は残虐な殺戮であったばかりでなく、最悪の環境汚染だった。 油田や原発の爆破、劣化ウラン弾の使用、等々。そしてその影響は公表されず、闇の中である。世界の一極化とグローバリゼーションが本格的に始まるのは、この戦争を境にしてである。

 

チェルノブイリ原発事故については広瀬隆さんの動画がわかりやすいかと思います。

ただ、この方はゆっくり話されますので1.5~1.75倍速をお勧めします。

時間は2時間ちょっとあり、長めなので忙しい方は適当なところで区切って見てもよろしいかと思います。

 

 

実際はチェルノブイリ原発事故の放射能はヨーロッパ全土に広がり、日本を含む全世界にまで及びました。マスゴミが何故報道しなかったのか。マスゴミを支配しているのがDSだからではあるんですけど、IAEA(国際原子力機関)のフランス総裁がベルトラン・ゴールドシュミットという人物で、ロスチャイルド家の人間です。

 

 

1980年にIAEA議長となり、チェルノブイリ原発事故の証拠隠滅の指揮をとってきました。

「チェルノブイリ原発事故の死の灰は我が国フランスには降らなかった」と嘘を垂れ流し続け、フランスが原子力大国となってしまいました。

広瀬隆さんの動画を見るといかに原発推進がヤバいのか思い知ることになります。

 

原子力、核兵器、つまりウラン利権を支配しているのはロスチャイルドなのです。

他国に戦争させて兵器を売ってボロ儲けのために動く戦争屋たちです。

グローバリゼーションの浸透にたいして

グローバリゼーション―最近になってしばしば論議になるこの兆候は、じつは六〇年代後半から始まっているというべきである。あの頃から、北側における産業化が目まぐるしい勢い世界を制覇し始めていた。世界経済の共時性は、石油危機以来、より明らかにされた。

しかし、今日、アメリカが主導するグローバリゼーションとは、なんだろうか。「生産」と「進歩」についての無反省と、「利潤のためには犠牲は厭わない」、「商品化できるすべてを商品にする」という凶暴な経済主義の上に基づいていることが少しずつ露呈してきている。次々と打ち出している規制緩和はこうした経済主義を実行するためのものである。グローバリゼーションの自由化政策は、多国籍企業の利害を擁護することはあっても、消費者や住民の公共空間―市民の健康と公共衛生を保障し、教育や社会福祉など、さまざまなサービスをあらゆる人が平等に受けられる場としての―を守ることはない。この動きは、何か重大事が起きれば、あたかも、フランス革命の前時代に国費を散々浪費して、「余の亡き後、洪水が来ようと知ったことか」とのたまった一八世紀のフランス国王ルイ一五世のごとく、はなはだしく無責任で臆面もない態度に裏づけられている。さらに悪いことは、途方もない拝金主義と、市場原理のみが人間生活のすべてに優先するという考えを蔓延させていることである。

こうした世界的動きを推進している社会のスペクタクル現象は、広告媒体に顕著に現れるが、そのような演出のしかたは、今やあらゆるメディアや分野で実践されている。それゆえ、歴史的文脈を故意に排除した資本のイメージ演出とショー化、言語操作を、「統合されたスペクタクル」として六〇年代後半にいち早く見抜き、資本主義社会の欺瞞性を暴いて見せたシチュアショニストたちや、その主宰者の一人だったギー・ドゥボールの著作『スペクタクルの社会」が近年、注目されているのは、こうした理由による。そして権力にとって大事なことは、すべてをスマートに表層をツルツルに見せることである。今日では主流のメディアが、「演出」という名のもとに、争ってそれを実行している。それは一種の自主規制ともいえる。 世界各国のテレビ・ニュースを観てみよう。よほどのことがないかぎり、どんな事件が起きても、生活のリズムはあたかもスマートに維持されているように虚飾されているではないか。その意味でも、スペクタクルそのものが日常化されてしまった今日、ドゥボールによる「スペクタクル」という批判概念さえも、いまや不充分になった。

一極集中型の「グローバリゼーション」は、あたかも唯一の考え方によって、すべての異った文化を排除するか、覆い尽くそうとする抑圧的機能を持っている。文化が本来、形成されるときに内包されている複合的な豊かさやその複数性、そしてそれに伴ってかならず生まれる澱みやアク、摩擦などを根こそぎにしてしまうことへの危惧を、私は抱かずにはいられなかった。だが、現実の権力は、わたしたちが想像している以上に狡猾である。多文化主義や文化相対主義を政策の中に取り込むことによって、あたかも異文化に寛容であるように見せかけている。

アメリカが主導するグローバリゼーション=DSです。

とても2001年の本に思えず、現代にも通じる内容ですよね。

DSの意のままにマスゴミは肝心なことは報道しませんから、情弱で抽象度の低い他人軸人間たちは洗脳されお花畑にいるように錯覚されるのです。

ともかく、湾岸戦争以降、環境問題やグローバリゼーションに関心を寄せている市民層が非常に広がったことはいいことだ。九九年以来、フランスやドイツで見られるような左翼・社会民主系と環境派の連立政権が、ヨーロッパで曲がりなりにも成立可能になったのも、そのような層が存在しているからだといえる。しかし、この左翼中道的な政権の現実政策が、今日の野蛮ともいえるネオ・リベラルの世界的な潮流にたいして、対抗できるような政治となりうるかは、はなはだ疑問である。政策決定の第一の要因が、かならずといっていいほど市場経済的論理であるかぎり、市場原理と公共空間の間合いをまったく平等に取ることができるだろうか。

こうした現状にたいする新しいタイプの市民による抵抗運動も始まっている。たとえば、「フランス農民総同盟」は早くから有機農業を提唱し、地域農業と、自給自足の作物生産を擁護しようとしてきた。またグローバリゼーションや遺伝子組み換え作物の使用にたいして、非暴力直接行動の反対運動を展開している。農民総同盟のリーダー、ジョゼ・ボヴェを中心にした九八年以降の一連の異議申し立ての重要性は、第Ⅰ章で述べたとおりである。二〇〇〇年六月のジョゼ・ボヴェと仲間を支援するミヨーでの集会が五万人規模の人々を参集させた背景には、世界中の多様な市民たちが繋がりはじめた事実があるのである。集会の中心議題は「いかにグローバリゼーションに抵抗してゆくか」で、さまざまな分科会が開かれた。このように、第二のシアトル―WTOのシアトル会議にグローバリゼーションに反対する市民たちが二万人以上おしかけ、採決が中止になったともいえる大きな広がりを見せたことは、私に強い希望を抱かせた。

グローバル化に反抗するのは、第一産業の人たちが多いですね。

一番被害を受けますので、政策の嘘に気づきやすいのだと思います。

日本政府は、抗議デモや暴動が起きないように第一次産業では食べていけないように潰し、サラリーマン化させるために手を打ってきたのではないでしょうか。

農家も税金取られまくって大変なんです。悪意を感じます。

ヨーロッパでは、農民によるデモが多発しましたね。

そのことについて日本のマスゴミは一切スルーでしたが、政府は農家が立ち上がることを恐れているのでしょうね。

日本の現状

私にとって、ヨーロッパに身を置くことは、日本の近代を西欧のそれと比較しながら相対化今日の状況を世界的な視野から考えるチャンスともなった。日本の近代国家の基礎として成立した天皇制やその延命、日本の敗戦、戦争責任、戦後補償など避けて通るわけにはいかなかった。というのは、異国に暮らすことは、常に自己証明を強いられるからである。

ところで、今、日本の二一世紀を見つめると何が浮かび上がってくるのだろうか。記憶が掻き消される。過去が抹消される。歴史的文脈から切り離されて現在が宙に浮いている。そんな実感を持ったのは、二〇〇〇年七月、総選挙の結果を見たときだ。戦後民主主義の成果を押し流した悪法(ガイドライン法、盗聴法、日の丸・君が代法制化)が成立してしまったあとにも、こんな結果が出たことに恥辱を覚えたのは私だけではないだろう。石原都知事の「三国人」という民族差別的発言、森首相の「神の国」「国体擁護」という皇国思想を体現するネオナショナリズム的発言、しかも国民から信託をほとんど受けていないこの首相がズルズルと居直れる国。国旗掲揚、国歌斉唱などをとおして、極右翼のテロルを背景に、じわじわと全体主義的ムードが広がっている。そのいずれも日本の真の民主化に逆流している。

新世紀のこうした厳しい過渡期状況を見ると、わたしたちはますますグローバルに思考し、環境のエコロジーのみならず、社会のエコロジーと精神のエコロジー(ガタリが言うところのエコゾフィー)をも同時に実践してゆく必要を痛感する。 「ゆとり」 や 「やさしさ」「癒し」などの言葉が流行る日本の現実は、じつはとても過酷な社会なのだ。自己や他者の人間的生活を省みる余裕がないくらい、競争原理、利潤追求原理のもとで目まぐるしく働かされている。民主主義の精神が枯渇してもしかたない社会状況が、一方には厳然としてあるのである。

こうした時代の重い空気を変えるためには、ぜひともわたしたちは社会的エコロジーを機能させるための働きかけをしなくてはならない。その点で、あちこちで活性化している市民や、とくに女性たちの運動にこそ夢を託せる。彼ら、彼女らこそが新世紀の主役となるべきなのだ。

そして全国のこうした運動を連係させることが、その働きかけのひとつとなるにちがいない。

大きなことを一度にできなくともいい。じつはたった一〇%でも、支持基盤があれば、社会は変わり始めるのである。それはヨーロッパのエコロジー運動が充分証明している。過労で疲れきり、社会は変わらない、と開き直っている企業人をしり目に、けっしてくじけずに粘り強く、その10%のボーダーラインを越えようと闘っているのは彼ら、彼女らだからだ。日本も多様価値を共有し、開かれた国になりうるのだ、という希望が私(たち)にとっての10%である。

 

数年前から少しずつ始まった日本での海外自然塩への関心を、たんなるグルメ趣向と健康ブームの一環で終わらせないためにも、拙書がゲランドの塩を媒介としてグローバルなヴィジョンを考える契機になるとしたら、うれしい。本書を環境問題、地域や「世界を変えるために」さまざまな次元で行動しているすべての人たち、とくに私を支持して下さった原子力資料情報室の故高木仁三郎氏、反核の多くの仲間たち、また急逝された日本湿地ネットワーク代表山下弘文氏ほか湿地保護のために闘っている方々、海上の森を守ろうと愛知万博に反対している友たちに捧げ、エールを送りたい。

最後に、この本を書くにあたって、お世話になった多くの方々にお礼を申し上げたい。この本を書く引き金となり、その後、多くの援助と資料提供を惜しまなかった「ゲランド塩生産者集団」シャルル・ペロー、フランソワ・ルカロ、写真を提供してくれたバ・シュール・メール塩田博物館主任学芸員ギルダ・ビュロン、同ミカエル・シモナン、ミッシェル・モンフォール、グザヴィエ・フュルパン、ジャクリーヌ・ド・マロイユ、ナント市助役ジャン=クロード・ドモール、その他、「ゲランド塩生産者集団」のメンバーたち、とくに秘書のソフィー、養成センターの講習生一同ほか取材に応じてくれたすべての人々にお礼申し上げたい。とりわけシャルルの辛抱強い援助と情報提供がなければ、本書は完成しなかった。

そして、本書の意味をすぐ理解し、貴重なアドバイスとともに今回の出版の橋渡しをしてくれた友、鵜飼哲、また私の空想話を出版する方向へ牽引し、私的事情で執筆を始めてから何度途中で速度ダウンする私を最後まで励ましてくれた杉村昌昭、日本から資料協力してくれた田中庸介、バックアップして下さったなだいなだ、諸氏に感謝の意を表したい。

草稿の全体的な再構成、編集や校正では、岩波書店柿原寛氏の鋭敏な判断力に大いに助けられた。心からお礼申し上げる。また、幾度かの取材に協力し、忍耐強く見守ってくれたエリアンヌにもありがとう。そして本書を見ずに急逝したエリーズに。長寿の父母に。

二〇〇一年四月 コリン・コバヤシ

 

以上をもちまして、ゲランドの塩物語の紹介を終了したいと思います。

16記事に及びましたので、まとめ記事を作りたいと思います。

また、ゲランドの塩を使った料理も紹介したいと思います。

この本一つで、DSや資本主義のことまで見えてきますし、かなり抽象度が上がります。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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