前回の続きとなります。

 

 

引き続きコリン・コバヤシさん著『ゲランドの塩物語 ─未来の生態系のために─』です。昨日投稿しようと思ったら消えてしまいました

 

 
 

 

前回、シャルル・ペロー氏が塩職人になったという話でした。

彼の後にも転職して塩職人になる人が続きます。

一人は電気技師の資格を持ち、郵便局に勤めていたけれど、1979年に講習を受けて、夫婦で塩田で働いているという人。塩職人の仕事の環境や自然の静けさや、自然とのふれあいに惹かれたのだとか。

また一人は特殊教育の教員をしていたけれど、1980年に講習を受け、採集池を五六以上開発し、一時は塩職人組合の会長もしたという人。

この人は仲間の塩職人に伴って塩田に通ううち、次第にこの環境が気に入ってしまい、湿地帯の保護と文化伝統を継承することがとても重要だと考えていました。

また一人は商船会社で電気技師をしていたけれど、1980年に講習を受けて塩職人になりました。航海に飽き、ゲランドの塩職人たちと友だちになり、塩職人の仕事に魅力を感じたことと環境問題への関心から塩職人になっています。

サラリーマン的な、規則的だが単調な繰り返しの仕事のかわりに、塩職人は自分の空間をつくり、自分の時間の主になれる充足感がある。そして、塩職人の仕事をすること自体が環境保護に直結していることにも満足している。

ここには、彼らが、ある生活様式を断念して、他のもうひとつの生活を選択したという人生の大きな曲面が感じられる。そのもうひとつの生活とは、ある質的な価値を持ったものだった。

ここに挙げた大半が、それなりの高給の職場にいたが、仕事の完成による喜びが少なく、ぬかるみを踏んでいるような手触りしかない。努力してもそれが空回りする徒労に終わり、現実に実を結ばないケースが多かった。

シャルル・ペローをはじめとする「六八年五月」を経験した大学や高校の出身者、あるいは組合活動などをとおして異議申し立て運動を経験した若い労働者たちが、まさに大学や六八年五月革命で学んだことを現場の状況に適応させながら実践しようとし、また、しつつある場所が、このゲランド塩田だったのだ。

サラリーマンというのは、資本主義の生み出した産物であり効率よく税金を搾取するための奴隷なんです。

サラリーマンの仕事に充実感を持てないのも突き詰めていくと、DSまで行ってしまいます。大量生産大量消費というシステムによる企業間のヒエラルキーが存在していてそれを牛耳っているのがDSって書いたら、悪神の邪気を感じたわけなんですけども。

ゲランドの塩職人の場合、自然とともに生きるつまり自然と調和しながら生きるスタイルだから、どちらかというと老子に近い生活スタイルでもあるんですよね。

ここで第二の人生を歩むことにしたのは良い選択だったと思います。DSとは対極ですね。

 

個人事業は不安定でサラリーマンは安定していると思って、一般企業に就職する人はとても多いとは思いますが、実は抽象度が下げられ視野が狭められているまさに奴隷マインドそのものです。特に給与計算する総務の人はこのカラクリに気づいてほしいところです。

地元の若者たち

むろん、こうした外部からの転職組以外にも、当然地元の塩職人の息子たちもいる。しかも一時、塩田をあきらめたけれども、やはり塩田が忘れられずに戻ってきた若者である。代々継承してきた塩職人の後継者が、まったく消滅してしまったわけではないのだ。

塩職人の過程に生まれ育ち、食べていけないからと家業を継ぐことを反対されて、他の仕事に就いてみたけど、子供時代に手伝ったときの思い出が忘れられなくて戻ってきたそんな話も書かれていました。

また、シャルル・ペロー氏の演劇「売られた半島」を見て、やっぱり塩職人をやろう、環境を守っていこうと決意を固めた人もいました。

食べていけない塩職人の課題をどう変えていったのかはこれから明らかになります。

価値観と合致したから

アランは、ゲランドから遠くないルドンの生まれだが、パリで農業技術者としてとくに第三世界の農業開発計画の評価見積り作業をやってきた。一〇年以上働いてきたが、一九九〇年に、パリの仕事を棄てて、ゲランドにやって来た。

「前からずっと思っていたんです。夢というか、理想というか。ただ、もう少しあとになって実現すべき夢として」塩職人の仕事は、彼の考えている価値観を、身の丈に合った形で擁護するにはちょうどぴったりだった。つまり、生態系の保護や塩職人という伝統の継承である。そしてイデオロギー的には生産第一主義を拒否することだった。彼は十数年の農業技術者としての仕事と研究のなかで、フランスの農業が極端までに生産主義に走ってきたことを認識した。

―こんな前世紀的な方法で、生産は上がらないでしょう?

「塩職人の仕事は、仕事の方法からして、けっして生産高を簡単に上げることはできません。そのため、この職業は消滅の運命にあるといわれるけれども、ぼくはむしろ未来の職業だと思っています」

アランはパリでの職は棄てたが、ゲランドで塩職人の仕事をしつつ、農業技術者としての仕事も継続している。

いちばん変わり種が、ヒジャルマールというスウェーデン人である。五五年生まれで、八三年以来、フランスに定着した。 ゲランドの女性と結婚した。 スウェーデンでは小学校の教師を勤め、教科書編纂の仕事をしていた。また環境保護運動を市民団体のメンバーとしておこなっていた経験も持っていた。

「ぼくがここに来たとき、 製塩をしようなんてまったく思わなくて、毎日塩田に飛んでくる鳥たちを見にやって来ただけです。そこで、ある塩職人と知り合い、彼の仕事の手伝いをするようになったのが、ことのはじまりですね」

このように語る人は新しい塩職人のなかには少なくない。まず場との出会いがあり、そこで働く人との出会い、そしてその職業への同化という順序だ。肉体を動かす喜び、手を使う技術というのは、知的訓練を受けた高等教育の資格保有者には、とりわけ魅力的に感じられるのだろうか。

ヒジャルマールは一〇年間塩職人をやったが、体力的に限界を感じて辞めた。現在は「ゲランド塩生産者集団」の職員として、環境問題やマスコミとの対応、そして市民団体「母なる水」の仕事に関わっている。

こうして、新世代の塩職人パリュディエたちは、旧来の世代とは異なったメンタリティーを持っていることが、明らかになった。黙々と自分の職業を貫徹して、自己の領域の中だけで充足するだけでなく、外部とのコミュニケーションをつくり出しながら、しかも自分の仕事が世界でどのような意味を持っているのかを知っている彼らにこそ、塩田の未来が託されているにちがいない。

こうしてゲランドの塩職人が次々と集まりました。彼らはゲランド塩生産者集団の一員となります。

続いてゲランド塩生産者集団についてです。

「ゲランド塩生産者集団」は、モンフォール夫人が書記長となって活動を開始した。シャルル・ペローは二年後の七四年にこの団体に加入し、七六年に副書記長となり、ともに一一年間闘い続けることになる。

塩職人たちは、同時に県立農業局をはじめとする地方のさまざまな管轄行政当局と交渉し始めた。このときになって初めて県立農業局は、真剣に塩職人の問題を検討しだしたといえるだろう。

 

経済基盤の確立へ

「ゲランド塩生産者集団」は、塩職人の初めての統一的組織だったが、最初は、生産者の相互扶助と生産物の販売の権利を有する協同組合としての定款はなかった。しかし、集団の発足から協同組合への段階的発展が何を意味するかは明白である。

それは製造者自身の自律的生産と経済を確保することである。それにはまず収穫された塩をかなりの量で貯蔵できる施設が必要だった。それは塩の収穫が毎年の天候、太陽と風に左右され、収穫量は年によってまちまちだからである。経済的に見あったものにするためには、毎年ある程度平均した量が出荷できる状態を作りだされば、安定した収入を得られない。さらに、まとまった集団として、塩の価格を仲買業者と交渉する必要もあった。また将来を継ぐ若い世代の養成所を設立し、運営して行くことも柱になっている。

それまで塩職人たちは、自分で塩田を持っている人はまだよかったが、おおよそ、仲買業者が塩田の所有者であり、この業者から塩田を借りて耕作している場合が多かった。

当時、一〇ほどの仲買業者があり、そのうち、二、三は大手の業者だった。この大仲買業者に決定的に従属した形で生産物の売買をおこなっていたから、自律的な経済を営めるような状態では到底なかった。

この組織ができるにはそれなりの理由があった。一九五〇~六〇年代には年々、塩職人が生活苦から職を離れていった。都市へ働きに出たり、兼業にならざるをえなかった。

<中略>

そうしたなかで、製塩業を保護することが組織の第一の目的だったのは当然である。 最終的には「ゲランド塩生産者集団」は、以前より四〇%以上高い値をつけて仲買人と交渉し、不可能だと思われていた卸値の引き上げに成功した。逆にいえば、今までの塩の値段はあまりにも安く買いたたかれていたのである。

最初の三~四年は仲買人と塩の値段を交渉すること以外に、大きな活動はなかった。それが、七六年には、塩を貯蔵する最初の倉庫(サロルジュ)が作られ、五〇〇〇トンを収納できるようになる。翌年、続けて六〇〇〇トンの収納能力を持つ第二塩蔵が建造された。

七八年に「ゲランド塩生産者集団」が提言をして、関連自治体が予算を出し、七九年、塩職人養成センターが設置された。八二年には、梱包作業のできる設備が備えられ、個人の塩職人でも容易に梱包作業ができるようになった。

ゲランドの塩生産者集団の活動が活発になり成果を上げてきます。

自治体の協力が得られたというのは大きいです。日本ではこんなことなかなかないですよね…アメリカ様の言いなりだから。

しかし、ここで新たな壁が立ちはだかります。

葛藤を伴った自立への道

八三~八四年と収穫の悪い年が重なり、この時期は仲買人と様々な交渉をとおして、塩の価格が落ちないようにした。しかし、八七年には交渉が妥結せず、挫折した。

「サラン・デュ・ミディ」社が一トン当たり七〇〇フラン以上では売れないといって、譲らなかったからだ。塩職人たちにとって、それは塩田の死を意味した。それまで、やっと貯蔵庫を作ったが、事務所もなければ電話もないという状態だった。緊急理事会が開かれた。そして、ゲランドの塩をほしがっている消費者がいるにもかかわらず、生産者のほうはなぜそれで生きてゆくことができないのか、という素朴な疑問が生まれ、組合は塩市場の構造を包括的に再検討することにしたのである。

仲買人にたいする信頼感は薄れた。仲買人に任せていては、みずからの生活を改善することはできないし、自分たちの自律した経済を確立できないと判断し、経営コンサルティング会社に委託して、現在の市場状況と今後の展望を調査してもらった。その結果はけっして否定的ではなかった。調査は数カ月かかったが、ゲランドの塩の知名度があるのは、西部とパリ地域だけだということもわかった。

このまま仲買人に依存した関係を続けてゆけば、自分たちの塩がこれ以上売れないことは目に見えていた。フランソワ・ルカロやシャルル・ペローなど若い理事たちは、ここで、みんなで投資して自分たちの団体を協同組合にして打って出るしかないと提案した。それは総会で承認され、ついでどのように具体的に計画を進めるかが理事会で討議されたとき、多数派のミッシェル・モンフォール夫人をはじめとする古い世代は、自主販売会社など作るのは自分たちの能力にあまることと主張した。結局、理事会での採決は旧世代が勝って、総会での決定を履行しないという結論を下したのである。

それからは、旧世代と新世代の対立となり、ペローとルカロは、会員全員に手紙を送り、同時にペローは副書記長を辞職して、自分たちの判断は総会に承認されたものであり、理事会が実行を拒否するのはおかしいと訴えた。この抗争は、数カ月続いたが、最終的に、再度総会が開かれ、激しい議論の応酬の末、モンフォール夫人の理事グループは少数派となり、退陣せざるをえなくなった。

モンフォール夫人が執行部を担当した「ゲランド塩生産者集団」の第一世代は、いわば塩職人気質が残っている古い世代であった。彼らは経済的にも調和のとれた従来の塩職人の生活ができれば、それ以上のことは望まず、仲買人とのもめごとは避けたかったのである。これまで、塩の売買はすべて仲買人に任せていたので、塩職人の古老たちは塩を従来より高く売れるなどとは考えたことさえなかったのだ。また、協同組合を作り、自主販売してゆくだけの発想や知識が乏しかった。彼らの世代はほとんどがすでに退職していたか、退職間近な世代で、これから新しい仕事に取り掛かる勇気とエネルギーがなかったこと、また後継者養成や製塩技術の伝達について展望をほとんど提示できなかったことなど、複数の理由が重なっていた。当然、 ペローのような大学出の若い世代の社会的、政治的問題意識と噛み合ってゆくのは困難だった。

八七年をもって、「ゲランド塩生産者集団」は協同組合として確立し、ペローの率いる新しい執行部にとって替わられるのである。彼らは、仲買人による塩の価格決定から自由で、自律的な方向を目指すべく、次第に自主販売を専門的におこなう新販売会社の設立を準備し始めた。

ゲランドの塩生産者集団のなかにも旧世代と新世代の対立が起きました。旧世代はやはり保守的になりがちで、新たな挑戦に対する失敗の恐れや伝統の破壊につながるのではと消極的に考えたのでしょう。

職人気質の人が多いところではそういうデメリットもあるんですね。

ただ、旧世代の方針のままではゲランドの塩業は廃業に追い込まれたかなと思います。新世代は、元民間出身が多く視野が広いのでゲランドの塩業の存続をかけて何が必要か知恵を出し合うことができたのだと思います。

伝統を守りつつも時代の波にどう乗っていくかですね。

新世代の執行部は旧世代の遺産を踏まえて、再始動しだした。当然、新しい方向での運営を軌道に乗せるには時間がかかるし、新しい塩職人の養成にも困難が伴うのは予測ずみであるにせよ、そう簡単ではなかった。だが、着実に自律運営の方向に向かって動きだす。今までは、品質の分別なく、五〇キロ単位のビニール袋に塩を入れていただけだったが、これからは自主販売を軌道に乗せるために、まず品質の高い塩作りを目指し、品質管理を確立するために、ふるいにかけ、ごみや不純物を取り除き、品質の仕分けのためのさまざまな設備投資をおこなった。製品化工場を充実させ、塩蔵の増設をした。

ところで、塩田の開発面積に関しては、七二年当時でも塩田総面積の四四%しか開発されていなかった。現在(二〇〇〇年)では組合員は一六五人で、組合の採塩池数は六〇四七、八八年以降、開発面積が四八%から徐々に増えたが、同時に八九年頃、比較的多くの塩職人が定年に達して退職したので、三三%に落ち込んだ。今はまた増えて三八%に戻っている。現実的には若い塩職人が入っても、まだなかなか全体の数は増えない。

塩田は、数年もほうっておくと、すぐ腐食作用で使いものにならなくなるから、すべてゼロから設計をし直さなければならなくなる。 粘土は鉄分を含み、放置しておくとサビが出て、その粘土の上につくった採集池からは良質の塩を生産することはできなくなる。 同時に粘土はすぐ水で形が崩れるので、水路や土手をいつも手直しして維持しておく必要もある。だから「ゲランド塩生産者集団」は、自治体から補助金をもらって、使用していない塩田の維持作業もおこなっている。

ゲランドの塩には鉄分が含まれています。

それは、塩田の粘土質の土に鉄分が含まれているためで、管理を怠るとサビが出てしまうそうです。

農業でも一度耕作放棄地が出てしまうと、そこから畑として再活用は難しいわけで、うちの畑も父が定期的にトラクターを回していますがそういう意味があります。

それと同じで、常に稼動していないといけないわけです。

あの塩のミネラルバランスを維持するのにここまでの努力があります。

 

また、大企業「サラン・デュ・ミディ」社との格闘も続いている。ほとんどの仲買業者を吸収してしまったこのフランス第一の大会社もまた、アメリカのノートン社に昨年、資本的には吸収された。つまり多国籍化して、世界的に市場を制覇する意気込みなのだ。

サラン・デュ・ミディ社は、南仏のカマルグに塩田を開発し、「カマルグのフルール・ド・セル(塩の花)」の名前を冠したカマルグ塩を売りはじめた。しかし、味はゲランドの正真正銘の「フルール・ド・セル」に比べようもない。同じように採塩池の水面に最初に結晶する塩であっても、結晶する速度や、水質の違いには歴然としたものがあり、ニガリの度合いが異なるからである。舐めて比べれば、その違いがすぐわかる。「ゲランド塩生産者集団」は、商業裁判所に「フルール・ド・セル」の名称の使用は違法として訴えている。サラン・デュ・ミディ社はまた、スペイン産の安い塩をゲランドに輸入し、梱包をゲランドと銘記して売ることも始めた。これは倫理観を欠いた企業が金もうけのためによくやるたぐいの戦略である。こうした攻勢にたいしても、「ゲランド塩生産者集団」は闘うつもりだ。

付け加えると、ノートン社はサラン・デュ・ミディ社をして、地中海のフランス最大の塩田を閉鎖するという。要するに効率が悪く、儲からない工場は閉鎖するということなのだろう。

資本と市場論理だけに従うなら、 ゲランドの塩田は遥か昔に消滅しているはずなのである。

サラン・デュ・ミディ社の正体がここで明らかになります。

アメリカのノートン社が関連する多国籍企業というわけです。詳細な情報は得られませんでしたが、もしかしたらDSが絡んでいるかもしれません。

「フルール・ド・セル」は、そもそもゲランドの特産品であってこちらが本家です。しかし、サラン・デュ・ミディ社が“フルール・ド・セル“という呼称を商標として所有していたことで、ゲランド産の“フルール・ド・セル“がその名を名乗れなくなってしまったという意味不明な事態に。

「地中海産の塩が“フルール・ド・セル”を名乗るなんて!」 そうした声が多く、生産者集団はサラン・デュ・ミディ社を相手取って訴訟を起こし、2000年になってようやくこちらも“フルール・ド・セル”を名乗れる という裁判の結果に至りました。

結局どちらもこの商標が使えると…なんだか腑に落ちない結果ですが。

あとですね、日本の塩メーカーで“フルール・ド・セル”使われていますけど…カタカナ表記…あ、下にフランス語…。

 

これいいのか…あせる許可とったのかなぁ。

怒られるんじゃないの?しかも結構お値段高め。

“フルール・ド・セル”にあやかるのではなく日本の塩として勝負してはいかがでしょうか、伯〇塩業さん。

しかし、サラン・デュ・ミディ社の産地偽装はヤバいですね。

大企業となるとこういうことは日常茶飯事なんでしょうか。信用を得るために悪に手を染めるのはどうかと思いますよ。

大手メーカーだから安心だという固定観念も外した方がいいですね。

大量生産大量消費に沿った食品業界は何かしらヤバいことをしているんじゃないかと疑ってかかった方がいいと思いますね。

 

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