少年時代、イタリアの名作「クオーレ」という、学校の先生、生徒達、そして先生の語る美しい色々なお話しを綴った名作を良く読んだり、学校で教わったりしました。その中には数々の美しいエピソードがいっぱい盛り込まれていました。(19世紀末のお話しだったようです)
有名なところでは少年がお父さんの宛名書きの内職をこっそり手伝い、自らは体を壊してしまい、後でその事を知った両親が泣いてその少年を抱きかかえ労わるエピソード。
瀕死の病人の前に、行方不明の息子に代わり、自らが息子と名乗り出てその病人を死ぬ間際に安心させてあげるエピソード。
この他、感動的なエピソードが多く盛り込まれていますが、どうしても私にとって矛盾を感じて納得ができない事があります。
主人公の同級生に優しく、とても立派な少年が登場します。
こんなお話しだったと記憶しています。
ある日、クラスのとんでもんでもない不良少年が彼にひどいいたずらをしました。そしてその様子を目撃した担当の教師が、その不良少年に対し、「後で職員室に来なさい。」と厳しく語りかけました。
するとその直後被害者であるその優しい少年は、職員室に入りました。そしてその優しい少年が職員室を退出した直後に先生が現れ不良少年に向かって落ち着いた声で話しました。
「許します!」
ところがこれだけのいわゆる人格者ともいうべきこの優しい少年は大きな不幸に見舞われる事になります。その少し後、彼の母親が亡くなったのです。
悲しみの真っ只中のこの少年は涙いっぱいに悲しみを堪える事も叶わず、読む私も胸が張り裂ける思いでした。主人公始め同級生たちも、「どうしてこの少年がこんな目に遇わなくてはならないのだろう」と天を仰ぎ悲嘆に暮れました。(/_・、)
私は天国におられる作者の方にお尋ねします!
どうして!例えフィクションとはいえ、こんなお話を作ったのですか。なぜなんですか。ちょっとでも良いです。天国から降りて来て説明して下さいヽ(*`Д´)ノ
映画の2作品、「汚れなき悪戯」(伊、西)では幼い少年が天の招きでこの世の人ではないお母さんの許に行くことができましたし、「天使の詩」(伊)ではお母さんの死をぐっと堪えて胸の奥にしまっていた少年が、ついに病死という形で「これで天国のおかあさんに会えるんだ。」と最後の言葉を放って亡くなるラストが描かれます。
でも物語のこの少年に関してはそれすら許されないのですよヽ(*`Д´)ノ
どうしてこんなお話になってしまうんですか!?
他国に侵略されたことの無い遠い我々日本の国民の事を見据え、
「我々はいつも他国の侵略でこんな不幸な目に遇って来たんだぞ、小さなささやかな幸せもズダズダにされて来たんだぞ!お前たちなんかにその事が分かるものか!?」
そうおっしゃりたいのですか!?
良く行く書店で棚にある「おかあさん大好き」とか「偉い人のお母さん」などという本が目に入ったり、道を歩いて遭遇する幼い子の手を引く母子の姿を観て、坊やのもとに駆け寄り、「坊や、おかあさんはこれからもずっと恋人なんだよ、いつまでも仲良くするんだよ」と語り掛ける度に、私の心の中にはこの物語の少年の涙姿が甦って来て(フラッシュバックということです)、益々私は悲しみの底に突き落とされて行く事を感じてしまっているのです。
そしてこのようなお母さんと子供のような、一見ありふれたようでいても、宝とも云える大切な光景が決して消えることなく、いつも私達に心の幸せを運んで来る事を祈ってやみません。日本だけでなく世界のあらゆるところでそれは場所が変わっても云える事ではないかと切に思います。