家族で出かけた時に、狭い車内、
信濃の国で盛り上がったことがありました。
そこは知らない、えっ、よく歌えるねー、そうだったの!?ガハハ、
あ~でもない、こ~でもない。みんなで口ずさんで楽しかった。
信濃の国もいよいよ佳境。
本日は、偉人編 5番です。
実は、学校で5番を歌った記憶がありません。
時間の都合上(1時間目の授業が始まる、など)、5番(と3番)をとばしていました。
が しかし、信濃の国の話しになって母が自然と歌い出すのが、この5番でした。
【 5番 】
旭将軍義仲よしなかも 仁科の五郎信盛のぶもりも
春台太宰しゅんだいだざい先生も 象山佐久間ぞうざんさくま先生も
旭将軍源義仲*も、仁科五郎盛信*も、太宰春台*先生も、佐久間象山*先生も、
*源義仲(1154-1184)
平安時代末期の信濃源氏(信濃にいた源氏)の武将。 出身は武蔵(埼玉県)。
父が戦死した後、幼くして木曽へ逃れ、
木曽二郎(なんか演歌歌手みたい)として成人。
越中(富山)の戦いで平軍に大勝して入京、「旭将軍」となる。
のちに、源頼朝(1147-1199)の命を受けた義経(1159-1189)と戦い、
大津で討ち死にした悲劇の将軍。
*仁科五郎盛信(1557-1582)
武田信玄の5男 五郎さん。 戦国時代から安土桃山時代の武将。
信盛は間違いで、正しくは盛信ですって。
歌詞を正さなくていいのでしょうか。
父・武田信玄が征服した安曇(あずみ)にある仁科城(現在 大町)
の城主となり、仁科五郎盛信を名乗る。
5万の兵を引きいる織田信長に対して、五郎さんは3千の兵で抗戦。
しかしこの戦いで討ち死に。この時25歳。
*太宰春台(1680-1747)
江戸時代の儒学/経済学者。飯田出身。
著書に「経済録」、など。日本に「経済」という言葉を広めた人物。
長野県内においては、灌漑用水や山林保護を提言した。
昔の人にしては長生き、67歳の大往生。
歌の中で名字と名前を逆にしているのは作詞者の意図だそうですが、
現代に生きていればグローバルに活躍されたであろうお方なので、
ハイカラ感を出したかったものと思われます。
Syundai DAZAI.
*佐久間象山(1811-1864)
こちらも歌のなかでは Zouzan SAKUMA.
武士、医学・兵学・砲術学などあらゆる学問に精通した学者、数学の天才。
鎖国反対-開国論の祖。
この先生のことはよ~く存じ上げております。
小学校のお集まり室(視聴覚室的に使用)に先生の大きな肖像画が飾ってありました。
眼光鋭い醤油顔のイケメンで、
先生と目が合うと、自然と子供達の無駄口も納まるのでした。
松代(まつしろ)が先生の故郷です。
松代には、父が持病の腸閉塞で入院する病院があります。
なんてことはどーでもいいんですが、
先生が初めて「電報」を実験し成功させた櫓(やぐら)が、
病院のすぐ近くにあります(ガリレオのピサの斜塔的存在ですね)。
松代の展示館で先生の偉業を見ましたが、
鉄砲や船の設計図など、R定規も烏口(からすぐち)もなかった時代に、
まったくもってアンビリーバボな図面をひいていらっしゃいます。
象山先生の話し、もう少し続きます。(手短にプリーズ)
長野県人は、象山をしょうざんと呼ばず、ぞうざんと呼びます。
象山という名は、禅寺「象山恵明(ぞうざんえみょう)」が由来。
松代の南のはずれにある気象庁の地震観測所へ続く道の途中、
(地震観測計を初めて作ったもの象山先生です)
町の南北を流れる川の西側にひっそり且つ堂々と建っています。
お寺の背後に迫る山は「象山」といいます。
皆此この国の人にして 文武ぶんぶの誉ほまれたぐいなく
皆、信濃の国に生まれたり、ゆかりの人であり、学問や武芸などに長けた人々で、
山と聳そびえて世に仰ぎ 川と流れて名は尽ず
偉人たちの名誉は山のように高く、川の流れのように永遠である。
偉人達の故郷
偉人編、これで終わりです。
次回は、いよいよ■⇒最終章【6番】。お楽しみに!!
これ、長野県人or親長家(親日家をモジって)の方でないと、
さほど 全然楽しめないのかもしれないな~ という気が今更してきました・爆。
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