『ねぇ、その人って、そんなに偉い人なの?』

恐る恐る聞くも、小渕はそれだけは教えてくれなかった。

聞いたところで、今後その人の前で緊張し、いつも通りの笑顔が曇ってしまったら、お前が可哀想だから、と。

次の日。

私はファンデーション以外の化粧を薄くして出勤した。

だが、胸中、最悪な感情だけが取り巻いていたのだ。

従業員しか通らない地下を歩いている間、黒スーツを着ている人間を見ると、おのずと首が下を向く。

「その人」が同じ宴会部だとは限らない。

全く違う部署の課長かもしれない。

部長かも、マネージャーかもしれない。

もはや、全員が「その人」に見えた。

そんなイバラの道である地下を通り、クローク内に出勤した私は、見つけた平原を隅に呼び出し、謝罪をした。

『私の化粧が濃くて、ホテルマンとしての身だしなみがいたらないせいで、平原さんには本当に嫌な役をさせてしまって本当に本当にすみませんでした。今日は取り急ぎ、出来る範囲で化粧を薄くしてきたのですが、これ以上は自分の中では難しいですし、本当に残念でなりませんが、辞める事も視野に入れて考えています。』

「え‥‥?辞める‥‥?でもだいぶ良くなったよ。これ位なら平気だと思うんだけどな。でも、その人、小渕さんにも言ってたんだね。なら、小渕さんから聞いたと思うけど、松岡さんも怒って私に言ってきた訳じゃないし、須田さんに辞めてほしくて言った訳じゃないと思うんだ。」

(‥‥‥?松岡さん‥‥?え、今、松岡さんて言った?)

松岡とは、宴会部のエリアマネージャーだ。

テニスプレーヤーの松岡修三似である。

(どうしよう、小渕さんから聞いてなかったのに、平原さんに、暴露されちゃったよ‥‥。)

小渕の「私が可哀想だから教えたくない」という願いは泡となった。

しかし松岡とは、私も、名前と顔位は知っているが、話した事は一度もなかった。

なんども書いているが、エキストラは正社員や黒服から、相手にはされないからだ。

『そうですか。でも、注意を受けてしまった以上、やはり、その人の最善の意見を聞かなければならないと思いますし。でも私はその意見には従えないので‥‥。』

とりあえず、謝罪はしたという事で、平原との会話はそれで終わり、私もクロークカウンター内に入り、仕事を始めた。

(松岡さんかぁ‥‥‥‥。)

だが、頭の中はそればっかりだ。

いや、それだけかもしれない。

私はヒヤヒヤして、いつカウンターの前に松岡が通り過ぎるか分からないその恐怖と終始戦った。

(次に松岡さんと会ったら、どういう顔をすればいいの?)

惨めだった。

接客をしていない時、誰かと話していない時、私の頭には昔のトラウマばかりが再生された。

赤面症、あがり症で辛かった小学生時代。

担任に罵声を浴びせられ、必要以上に先輩に目を付けられた中学生時代。

私が化粧という名の仮面が必要ない顔だったなら‥‥。

そんな、もう、考えても決して叶わない望みばかりが湧いてくる。

悔しい。

「爪取りたくないから、厳しくないバイト探す~。」

「髪色このままがいいから、明るくても許されるバイトがいいな~。」

そんな戯言を言っている若者。

私は何人も見てきた。

スカルプをつけてお洒落したい。

髪を黒くしたくない。

そんな、若さ満載の理由だけで職場を選ぶ馬鹿な女達を。

傍から見れば、もしかしたら私も、そんな馬鹿となんら変わりないかもしれない。

化粧を落としたくないから職場を辞める。だなんて。

私が一番悔しいのは、そんな馬鹿と一緒にされる事であった。

彼女達はコンプレックスを隠す為ではないじゃないか。

スカルプを取った自爪でも、外には出れるじゃないか。

髪を黒くしたって、合コンには行かないかもしれないが、外には出れるし、仕事にだって行けるだろうが。

違うんだ。

全く違うんだ。

私はスッピンなんかじゃ、近くのコンビニにすら行けないんだ。

この苦しさが分かってくれる人が居ないのは分かっている。

まして化粧をしない男からしてみれば、私が何を言っているのかすら理解出来ない事だろうよ。

だが、一つだけ頼みたい。

違うんだ。

全く違うんだ。

常識に貧しい馬鹿な若い女らとだけは一緒にしないでくれ。