『あ!今日私、5階ですか?』

松岡との一件が過ぎてから、一週間程が経ったある日。

出勤し、自分のシフトを確認すると、その日私は、5階クローク担当だった。

前文でいつか説明した通り、プラウドベイホテルには、クロークが6つある。

B1156765階の6つだ。

宴会や婚礼に来たゲストの荷物は基本、メインエントランスロビーにある1階クロークで預かるのが決まりだが、宴会場がある階にもクロークが存在する理由としては、1階で荷物を預け忘れてしまったゲストが再び1階にさがらなくてもいいようにだ。

すなわち、600700個の荷物を預かれるのは1階クロークだけであり、その他のクロークでは200350がいい所だ。

一つの宴会の開宴時間、一時間前からは、メインロビーにスタッフが常駐し、来た客来た客に、「クロークはあちらです。」「御預けはあちらでどうぞ。」と声を掛けているので、宴会場のある階のクロークには、なるべく荷物を持ち込ませないよう努力をしているのだ。

という事もあり、1階以外のクロークは、「あまり混雑しない」という理由で、ひとり態勢でも対応が可能となる。

慣れないエキストラなどは、必ず数人態勢の1階クロークになる事がほとんどで、ひとり態勢を許されるのは、常勤か社員となるのだが、何度もクロークを経験した私が、5階クロークを一人で任される事となったのである。

1階クローク以外に足を踏み入れる事自体初めてだが、その嬉しさは、「昇進」した時の様な気持だった。

「須田さん、5階始めてだよね。もしゲストに分からない事を聞かれたら、5階クロークの中にも内線電話があるから、1階クロークに電話してね。業務は1階のクロークと同じだし、須田さんなら大丈夫だと思うんだ。で、行き方は分かる?」

『すみません。分からないです。』

「だよね~。案内してあげたいんだけど、今、一緒に5階クロークまで行ってあげれる人がいないから、口頭説明だけするから。」

その時、居た社員に説明だけを聞き、いざ、5階へあがる。

バックヤードのエレベーターで5階に着くと、そこには、キッチンが広がっていた。

(やべ~。わからねぇ!!どうしよう!!)

完全なバックヤードから、パブリックスペース(客も従業員も共に行き来する共用スペースの事)へ出られるドアがどこなのかさっぱり分からず。

すると、そんなあたふたしている私の前を、一人の男性スタッフが通りかかった。

宴会スタッフの制服(茶色のウェイター服)を着た若い男だ。

『す、すみません!5階のクロークを教えていただけないでしょうか?』

クロークスタッフの制服を着ている私に「クロークの場所」を聞かれたものだから、男性もふっと笑いながら、「こっちだよ。」と教えてくれた。

意外にも、すぐ横のドアから出ればいいだけだった為、大変恥ずかしかったが、男性の丁寧な対応にありがたみを感じた。

『お忙しい所、ご丁寧にありがとうございました!!』

私が、大きな声で礼を言うと、男性は少し顔を赤らめて去って行った。

これが、西野との出会いだ。(よしもと・キングコングの西野似)

(ちょっと言葉なまってたけど、いい人そうだったな~。社員さんなのかなぁ。)

1階クロークの混雑時、クローク付近をうろつくのは、役職つきの黒服だけだ。

皆、中年男性の為、休憩時間以外の仕事中に、同世代の若い男性スタッフと接触したのはこの時が初めてだった。

それから、彼とは、バックヤードで会う度に会釈をする様になったが、彼は、やはり、笑って顔を赤くした。

その事に関して私は、

(彼も私と同じで、赤面症なんだろう。親近感沸くな~。)

と思う位で、特に何も感じなかったのだが・・・。

(コンプレックスのせいで、愛する仕事さえ失わなきゃいけないのか‥‥。とりあえず、今の所、シフト入れちゃったのは、今週のあと三日。それ以上はシフトを入れず、様子を見て辞めよう。働くのは土日のラ・ヴェールだけで、平日はまた違う会社を探そう。)

その三日後の金曜日。

プラウドベイホテルのシフトが決まっている最終日だった。

来週のシフトは一切入れていない。

その日も何百人クラスの大きな宴会が入っていて、ちょうど引き出しラッシュでドタバタしていた際。

それは突然訪れた。

「その人」張本人である松岡は、いきなりクローク内に入ってきて、私の名前を呼んだのだ。

カウンターの外は、またしても満員電車が止まっているというのに。

私は、客から渡されたタッグと同じ番号の荷物を棚の前でウロウロ探していたのだが、松岡のその真っ直ぐすぎる視線に氷つき、「はい!」と返事をした後、すぐさま荷物を探し、カウンターに出て客にそれを渡すと、ダッシュで彼の前に行った。

「須田。平原からも小渕からも聞いてるだろうけど、俺の言いたい事は全く違うんだよ。小渕から電話で“須田が辞めるかも”って今、聞いて。これはもう自分の口と言葉で言うしかないと思ったんだ。須田、勘違いしないでほしい。須田は辞めるべき人材じゃないし、むしろ俺は居続けて欲しいから、二人にあぁ言ったんだ。なのに、人を挟んで注意をしてこんな誤解が生まれるとは俺も思わなくて。」

『は、はい!』

松岡の言葉は本気で意外だったが、なにせ氷付いていた私は、カチコチで、本当に混雑し、バタバタしていただろうクローク内の雑音なんか聞こえていなかったに違いない。

松岡の顔しか見ていなかったし、松岡の声しか聞こえなかった。

「俺は、須田に化粧を全く落とせなんて一言も言ってない。だから、絶対辞めるなんて考えないでほしいんだ。」

『はい!ご注意いただけただけありがたい事と思い、それをプラスと考えたいと思います!今回の件も、自分の化粧の件も、仕事や接客で取り返したいと思っております!松岡さんからのありがたいご期待にも添えられる様、今後とも誠心誠意、励み、接客にも力を入れていきたいと存じます!』

緊張のあまり、軍人か?と思う様な言葉が勝手に出た。

すると、松岡はふっと笑い、「よかった」と、その一言だけを残し、去っていった。

と同時に、私の力が抜ける。

空気で膨らました人形がふにゃふにゃになるかの様に。

結局、嵐の様に過ぎ去って行った彼の言いたい事は、ただ辞めないでくれという事だけで、化粧の内容というか、詳細などは聞いていない。

取り急ぎ薄くしたこの化粧レベルでいいのか、もっと薄くしなければいけないのか。

力が抜けてから疑問は絶えなかったが、一番の疑問はなぜ、言いに来たのが「今」だったのだろうという事であった。

(このラッシュが終わってからでも良かったんじゃないか?小渕さんから今聞いたって言ってたけど。だからってそれで、速攻飛んで来てくれたんだ‥‥。私を引き止めに。)

そうして私は、その件を小渕と平原に伝え、今後も頑張っていく事を約束し、来週の仕事も引き受けた。

来週も、その来週も。

平日はプラウドベイホテルのクローク。

土日祝日は横浜ラ・ヴェールでの会場スタッフ。

しかし、化粧は薄めに心掛けてはいるが、あれ以来、松岡の事は苦手なままだった。

運よく、あまり会う事はなかった上、すれ違っても、目が合わない為、大した接点はないのだが、会う度、氷付く事だけは変わらなかった。

そしてもちろん、プラウドベイホテルで常勤になりたいという切望も変わらなかった。

そんな中、2月末を迎え、大塚が辞めていったのだ。

私の勝負はまだまだこれからだ。

もうじき、次の常勤が決まる事となるだろう。

『ねぇ、その人って、そんなに偉い人なの?』

恐る恐る聞くも、小渕はそれだけは教えてくれなかった。

聞いたところで、今後その人の前で緊張し、いつも通りの笑顔が曇ってしまったら、お前が可哀想だから、と。

次の日。

私はファンデーション以外の化粧を薄くして出勤した。

だが、胸中、最悪な感情だけが取り巻いていたのだ。

従業員しか通らない地下を歩いている間、黒スーツを着ている人間を見ると、おのずと首が下を向く。

「その人」が同じ宴会部だとは限らない。

全く違う部署の課長かもしれない。

部長かも、マネージャーかもしれない。

もはや、全員が「その人」に見えた。

そんなイバラの道である地下を通り、クローク内に出勤した私は、見つけた平原を隅に呼び出し、謝罪をした。

『私の化粧が濃くて、ホテルマンとしての身だしなみがいたらないせいで、平原さんには本当に嫌な役をさせてしまって本当に本当にすみませんでした。今日は取り急ぎ、出来る範囲で化粧を薄くしてきたのですが、これ以上は自分の中では難しいですし、本当に残念でなりませんが、辞める事も視野に入れて考えています。』

「え‥‥?辞める‥‥?でもだいぶ良くなったよ。これ位なら平気だと思うんだけどな。でも、その人、小渕さんにも言ってたんだね。なら、小渕さんから聞いたと思うけど、松岡さんも怒って私に言ってきた訳じゃないし、須田さんに辞めてほしくて言った訳じゃないと思うんだ。」

(‥‥‥?松岡さん‥‥?え、今、松岡さんて言った?)

松岡とは、宴会部のエリアマネージャーだ。

テニスプレーヤーの松岡修三似である。

(どうしよう、小渕さんから聞いてなかったのに、平原さんに、暴露されちゃったよ‥‥。)

小渕の「私が可哀想だから教えたくない」という願いは泡となった。

しかし松岡とは、私も、名前と顔位は知っているが、話した事は一度もなかった。

なんども書いているが、エキストラは正社員や黒服から、相手にはされないからだ。

『そうですか。でも、注意を受けてしまった以上、やはり、その人の最善の意見を聞かなければならないと思いますし。でも私はその意見には従えないので‥‥。』

とりあえず、謝罪はしたという事で、平原との会話はそれで終わり、私もクロークカウンター内に入り、仕事を始めた。

(松岡さんかぁ‥‥‥‥。)

だが、頭の中はそればっかりだ。

いや、それだけかもしれない。

私はヒヤヒヤして、いつカウンターの前に松岡が通り過ぎるか分からないその恐怖と終始戦った。

(次に松岡さんと会ったら、どういう顔をすればいいの?)

惨めだった。

接客をしていない時、誰かと話していない時、私の頭には昔のトラウマばかりが再生された。

赤面症、あがり症で辛かった小学生時代。

担任に罵声を浴びせられ、必要以上に先輩に目を付けられた中学生時代。

私が化粧という名の仮面が必要ない顔だったなら‥‥。

そんな、もう、考えても決して叶わない望みばかりが湧いてくる。

悔しい。

「爪取りたくないから、厳しくないバイト探す~。」

「髪色このままがいいから、明るくても許されるバイトがいいな~。」

そんな戯言を言っている若者。

私は何人も見てきた。

スカルプをつけてお洒落したい。

髪を黒くしたくない。

そんな、若さ満載の理由だけで職場を選ぶ馬鹿な女達を。

傍から見れば、もしかしたら私も、そんな馬鹿となんら変わりないかもしれない。

化粧を落としたくないから職場を辞める。だなんて。

私が一番悔しいのは、そんな馬鹿と一緒にされる事であった。

彼女達はコンプレックスを隠す為ではないじゃないか。

スカルプを取った自爪でも、外には出れるじゃないか。

髪を黒くしたって、合コンには行かないかもしれないが、外には出れるし、仕事にだって行けるだろうが。

違うんだ。

全く違うんだ。

私はスッピンなんかじゃ、近くのコンビニにすら行けないんだ。

この苦しさが分かってくれる人が居ないのは分かっている。

まして化粧をしない男からしてみれば、私が何を言っているのかすら理解出来ない事だろうよ。

だが、一つだけ頼みたい。

違うんだ。

全く違うんだ。

常識に貧しい馬鹿な若い女らとだけは一緒にしないでくれ。