こんにちは、雅です。

この投稿はボスニアのモスタルという場所から
記事を書いています。




ここに来る前はクロアチアのドブロクニクという
アドリア海沿岸のお城がある街にいました。

その前のモンテネグロのコトルという街から
バスで数時間の場所だったので
何気に来てしまいましたが
旧市街はディズニーランドのような人混みで
圧倒されました。

珍しく沢山の日本人の団体に遭遇したので
人気の場所なんですね。

後から「魔女の宅急便」や「Game of Throne」の
舞台だということも知りました。




通りに溢れる人混みにうんざりした時
さりげに特に人気のなさそうな
小さな教会に潜り込むと
まるで別世界のような空気にほっとさせられます。

瞑想をするにはもってこいの場所で
教会の椅子に座り心を静かにしてると
時折真面目な教徒がやってきますが
その儀式的な振る舞いを観察すると
なるほど私たちも神社では
二礼二拝とかやってるよなぁなんて
妙に納得してしまう所があります。

私は宗教には詳しくありませんし
偶像崇拝にはピンとこないのですが
そういう特殊な場所に人々が長い間
尊重と共に一種のエナジーを持って佇んで来た
それがそのまま宿っていることを感じます。

ドブロクニクの旧市街の大聖堂には
教会の横側にも素晴らしい祭壇があり
ゆっくりそれを眺めながら
ある場所でピンポイントで立ち止まり
それと向かい合った時に
強いエネルギーを感じました。

それは尊重であり畏怖であり
切望、渇望に近いものであったり。

それは私自身から湧き上がるものではなく
明らかにそこに溜まっている
エネルギーだと分かりました。

全ての祭壇にそれを感じたわけでもなく
もしかして立ち位置がずれていたら
それすらも感じないのかと思います。

ただ中世の昔から人々が同様な気持ちを持って
ここに佇んでくるとこういうことになるのだなぁと
東欧の古き街にきて
妙に納得したような思いでした。




個人的には宗教を持つことは
良いことだと思っています。

自分の中に信じるものを持ち
心の拠り所になって自身を強くするのなら
たとえそれが偶像であっても
「繋がる」意図の媒体であるなら
それで良いのではないかと。

でも、「そこに行ったから願いが叶う」とか
そういうものは無いと思います。

あくまでも「そこに行った」という
自分の中の満足度や信じる心が
次の展開を生み出すだけで。

無条件に権力や「繋がっている」人に従い
己の「考える心」を失わせたり
購買やリクルートに走ったり
挙句には自分の信じる神がベストであり
それ以外を排除または攻撃する団体は
まやかしであるとでしか思えなく
それこそが日本人が怖がる
「宗教」なんでしょう。

世界に広がる過激派な宗教団体は
道を誤ってるとしか思えません。




私にとっては仏教の教えをベースにした
ゆるい瞑想が一番自分に合ってるような気がします。

それと合わせて動瞑想でゾーンに入って
疲れてエゴが弱ったその隙間から
するりと落ちてくる宇宙の言葉を得て
生きる選択を随分楽にできるようになりました。

人々が価値を置き
日常をそれで回しているものには
それなりに人それぞれと尊重はします。

それこそ若い人々には宗教に近いくらいの
ファッションやトレンドだってあるでしょうし。

ただSNSやメディアには
便利な情報が沢山あるけれど
あくまでも情報の「ツール」であり
インスピレーションはゲットしても
見えるのはあくまでも
「偶像」に過ぎないことも理解して
自分の生活に上手に役立てて欲しいものです。




要は、全ては「意図」の使い方次第なのでしょう。




ドブロクニクの旧市街は午前中でこの混雑。

日本人にとっては別に慣れっこなのかな。