人によって様々だけど、こどもから学びました。
大人がこどもに癒されるのは、欲求や自分の気持ちに対する素直さへの憧れなんだよな、そう感じてるのは自分の中の子供の自分《インナーチャイルド》の声。

あのこが不安なところ。
話を聞いてほしい、抱きしめてほしい、認めてほしい、許してほしい、愛してほしい。
全部わたしの声。

不安定が激しいときも具合がわるいときも、保育園にいくと魔法みたいにたいてい元気になる。
抱きしめてほしいってくっついてくる子供にじぶんの不安がシンクロしているんだ。全くもって鏡なんだな。
安心を求めてすり寄るこどもと、それを抱きしめて癒されるわたし。
互いにこのとき相手は無条件に受け入れてくれる存在、母なんだな。だから癒される。

多くの場合、人の安心とは母を感じることなんだな。
肉親でも恋人でも友人でもペットでも対象はなんであっても、欲求を否定されずにありのまま受け入れられたとき人はほっとする。

ただ大人になったわたしたちとこどもの違いは経験があるかないか。
こどもも大人も欲求事態はごく自然な、知恵によるものでなく生理的なこと。
でもそれをそのまま感じたまま表現するか、なにか理由をつけようとするか。
ない理由をつけることでそれが自分に足りないと感じるから人に求める。
すべての場合本質的には空の状態で感じることがじぶんの理由や原因であるはずなのに、逆転してしまってない理由をつけ加えて素直になれず苦しくなってしまう。

こども:抱きしめてほしい(原因)→だから抱きつく(行動)

大人:抱きしめてほしい(原因)→○○だから(創造原因)→足りない→求める(行動)

あってるかわからんけどこんなかんじかなあ、つまりじぶんの感じていることをありのままに感じられないために外側に依存する。
創造原因によって《足りない》という不足感を常に繰り返してしまうことが苦しみになってしまう。

これではどっちもこども…
からだや知能が年齢相応のこどもと、内面的に満たされず精神的なこども。


大人になるとは?

わたしも日々学習の身だからあくまでじぶんの経験による持論だけど、

自分を自分で愛してあげる術を学んでいく状態、またそうできるようになった人、
とかかなあ。


とにかくまずはじぶんの感じていることに素直になること。
そうしてはじめて安心を感じて、そして次には自分が感じたという経験と自分を認めたという経験によって、だれかにそれを与えてあげられるようになる。

苦しい人自分を愛してあげられずにいる人は、そういう意味で生まれたてのこどものように、学習したことをつかわずに感じること、こどもに戻ることが必要。

かもしれないけど、かといって無知がすばらしいのではなく、安心してから学習しても遅くないということ。
学習すること年を重ねて経験を積むことは素晴らしい、それだけありとあらゆるものことを愛せるようになる。
愛されている基盤があることで。


つまり安心は自分で感じていることだから、誰かがいること誰かがじぶんに何かすることだけでは出来事にすぎない。
どう感じているかが出来事の意味になる。




じぶんの不足感や不安は、じぶんの欲求をありのままに認めてあげることで癒されているのだなーという発見なのでした。

母親は状態だから肉親であっても本人が愛されたければそのこどもは愛を親から受けるのは難しいしね、いまそういうひとでいっぱいだし



はーつかれたメモおしまい。です。