こんばんは🌙
中大軟式野球部です!
3年生ブログリレー、第9弾⚾️
(お待たせしてしまいすみません、、!)
本日の投稿者は、
頭脳は回路、身体は筋肉、眠りのてつろう こと
米澤哲朗です!
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はじめまして。
中央大学理工学部電気電子情報通信工学科の米澤哲朗です。
チャイ!(中田くん)紹介ありがとう!チャイには野球部に入って競馬の世界に連れ込まれたのが思い出です。最近はあまりいけてないのでまた一緒に馬見に行こう!有馬記念行きたいな!
さて、僕は普段自分の人生を振り返ったり思い出したりということはあまりしないので、この場を借りてゆっくりと思い出しながら書き連ねて行きたいと思います。そして、大学野球で出会った仲間達への感謝の気持ちを贈りたいと思います。
第1章 人生で一番の成功体験
僕は5歳上の兄の影響で幼稚園年少の時点で野球を始めました。その時はサッカーも習っていて、欲張りなスポーツ少年でした。小学校に上がるときにどちらかに絞らないとやっていけない、ということで僕は野球を迷わず選びました。
小学生になって野球のチームに入ったとは言うもののまだ低学年のうちはお遊び野球でした。しかし周り小学生と明らかに違ったのが、僕の入っていたチームには平日の朝練があったことです。月曜日以外の平日は毎日小学校に行く前に5時に起きてチームで6時から7時半までグラウンドで練習をしていました。低学年での参加は自由だったのですが、兄がいたので僕は1年生から参加し、結局6年間は毎日朝練を続けました。監督をしていた父親に毎日叩き起こされながら通っていました。またチームの方針が朝早くに練習をして午後は家族の時間にしようというものだったので土日の練習も朝5時半から始まり、9時頃には終わっていました。今まで野球をやっていた友達の中では同じようなスタイルで練習をしていた人は見たことがありませんが、これは明らかに僕の中で大きな自信に繋がっていました。6年生になりキャプテンとして挑んだ渋谷区の大会の決勝で、僕は3打席連続満塁ホームランを放ちました。3打席連続でホームランを打つのも難しいですが、3打席連続で満塁で回してくれた仲間があってこその奇跡だったと思っています。mvp選手に読売ジャイアンツのジャビット人形が贈られるのですが、今でも大切に持っています。
都大会に出場すると2回戦でいきなり優勝候補のチームとあたり、相手のピッチャーは小学生で身長180cmの怪物ピッチャー。とんでもない緊張の中でまさかの14-3での勝利。ダークホースが出たと大会がざわめき、そのまま破竹の勢いで進むかと思われましたが次戦で0-10であえなく敗北。チーム全員で大泣きでしたが、少し油断して調子にのってしまっていたのを覚えています。このようにして儚く終わった小学生での野球人生でしたが、3打席連続満塁ホームランを打ったときの記憶は今でもとてつもなく大きな存在として脳の中に佇んでいます。6年間体に鞭打って朝練に通い、奇跡を起こせたことは僕の人生においての大きな成功体験として僕の記憶を彩っています。
これはチームの監督の関係でチャリティーイベントで先日200勝という快挙を達成した田中将大選手と練習をする機会をいただきました。小学生の僕から見るマー君はとにかく大きかったです笑
第2章 紆余曲折の中高生時代
渋谷区の公立中学校に入学した僕は、学校の部活ではなく強豪クラブチームに入団しました。土日のみの練習ですが、小学生までとは違い1日中の練習と沢山の走り込みでとてつもなくハードでした。平日は小学生の時のチームの朝練に顔をだし、打撃練習にひたすら打ち込んでいました。その練習を手伝ってくださったのが、中野孝征さん。作新学院が史上初の甲子園春夏連覇を達成した時のキャプテンです。代々木上原で蕎麦屋を営まれていて、毎朝仕込みをしてから僕の練習をマンツーマンでみてくださっていました。そんな日常にも慣れてきた中学2年生になった頃に僕は塾に入って、受験勉強を始めていました。なぜなら僕は早稲田実業に入って野球をやることを夢見ていたからです。小学生の時分、日ハムの清宮幸太郎選手が甲子園で活躍しているのを目の当たりにし、文武両道をこなす早稲田実業に大きな憧れを抱いていました。しかしやはり早稲田実業となると高校受験のなかでもトップレベルの難しさです。土日も勉強をしている回りの友達をみて、差をつけられていると感じ大きな焦りが生まれました。早稲田実業に入らないことにはなにも始まらない、と考えた僕は悩みに悩んだ末入っていたクラブチームをやめ、中学校の部活で野球は緩く続け、勉強に専念することを決めました。この決断自体は今でも間違いではなかったと思っていますが、少し気持ちに余裕が生まれ、勉強も野球も中途半端になってしまったことがいけなかったと自分のなかで今でも大きな教訓として残っています。結局受験では早稲田実業に落ちてしまい、埼玉の栄東高校という進学校に通うこととなりました。
僕の高校は全国でも有名なマンモス進学校でそこまで野球が強いわけでもなく、入学の時点で大学受験の話をされるくらい勉強に専念しようという学校でしたので、野球ではなく気楽に何か他のスポーツでもやってみるかという軽い気持ちで考えていたところ、日大フェニックスでアメフトをしていた父親から勧められアメフト部に入部することにしました。アメフトはコンタクトスポーツなので身体は強ければ強いほどアドバンテージになるのですが、それよりもとにかく頭を使わなければしょうがないスポーツで、野球の5倍くらいは難しかったです笑
高校一年生が終わる頃にコロナウイルスが流行り始め、緊急事態宣言で最初は学校が少し休みになるくらいだとみんなで喜んでいたものが結局それ以降の体育祭や文化祭や高校に入って一番の楽しみだったアメリカへの修学旅行も全て中止になり大きな影響を受けることとなりました。しかしそんななかでアメフトは心の支えとして変わりなく続けていました。(途中、車に轢かれ腕が折れてプレーできなかった時期あり...)3年の7月でアメフト部を引退し、残された時間で北海道大学を目指し猛勉強するも不合格。諦めきれず浪人するも届かず、1浪の末中央大学理工学部電気電子情報通信工学科に進学しました。
第3章 野球部に入って変わった大学生活
僕は大学に入学してからすぐに野球部には入部しませんでした。なぜならアメフト部と野球部で迷っていたというのもあるのですが、理工の後楽園キャンパスに通っているので、どちらの部活にはいっても平日の練習にほとんど参加できないからでした。結局一年生の内は部活に入らず二年生になって少し余裕ができた5月にアメフトはもうついていけないかなと思い、アメフトより経験があった軟式野球部に体験にいきました。その最初の体験で出会ったのがマサ(小牧正宣)です。今では部活のなかで一番仲が良い友人ですが、最初の印象は「なんなんだ、こいつは、」という感じでした笑
というのも最初で緊張していた僕に意味の分からない絡み方をしてきて、先が思いやられました。しかし、マサに加えてテラ(寺沼樹)の二人が入部当初からとにかく気にかけてくれて、だんだん緊張はほぐれていきました。マサは木更津から八王子まで車で練習に通っているのですが、いつも途中で僕を拾って車にのせてくれます。その行き帰りでゆうや(上野雄也)やタチヤ(立谷俊太郎)も混ざっての会話も野球部での思い出の一つです。
一人一人名前を書くときりがないのですが、とにかくみんな2年から入った僕を歓迎してくれて、あまり大学が楽しく感じていなかった当時の自分にとって野球部はとても居心地の良い場所でした。入部してから1ヶ月後くらいには一緒に競馬場にいったり、飲みに行ったり、分け隔てなく接して遊びに誘ってくれたみんなに感謝しています。
どれも良い思い出です。特に僕が野球部で記憶に残るのは試合での声かけで、それは半分野次のようなものでマサ主体で行われていたのですが、聞いているだけでは少なくとも野球だとは分からないようないじりのような声かけをみんなでしていました。他には三年の最後の夏合宿で、炎天下の中での練習やバーベキュー、すべての瞬間が最高で夏休みが始まってすぐに合宿だったのですが、帰る頃には夏休みが終わったような気分でバスに乗っていました。
書きたいことはたくさんあるのですが全て書くとブログの期限に遅れているのに更に遅れてしまうのでこれくらいにしておきます。
僕は軟式野球部に入ってこの仲間達にであったことで大学という枠を超えて人生を豊かにしてもらえたと思っています。みんなにありがとうと言いたいです。そして、練習あんまり行けなくてごめん!大学を卒業しても付き合っていきたい仲だと思っています!!
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部員同士で話してるのを見ていると、みんなてっちゃんのこと大好きなんだな〜と感じます🫶
あと余談ですが、前回の投稿、突然いいねが2桁になっていてびっくりしました笑
ブログリレー残り8人、半分を切りました!引き続き、お楽しみいただけると嬉しいです☺️
次回は、
「ナニかを秘めた男」
林輝一です!
明日10/29(水)に投稿予定です!
お楽しみに✨






