-  エペソ人への手紙3章:教会は奥義である。奥義の説明。奥義の定義。力と知識のための祈り。  -

 

※ イエスキリストの十字架と復活の福音をYOUTUBE動画で見れるようにしました。

   主イエス様のお力をお借りし、完成しました。是非ご覧ください。

   これをご覧になった全ての方がイエス・キリストを信じ救われますように。

 

 

3章は、この書簡の教理的な部分の最後の章です。私たちはこれまで、教会はからだであり、宮であることを学んで来ました。今、教会は奥義であることを学びます。この意味で、奥義とは、何か以前には明らかにされていなかったものが、今は表わされている、ということです。この場合は、旧約聖書の中では明らかにされていなかった教会が、新約聖書では全く明らかにされているのです。

 

(エペソ3:1-2)「こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います。あなたがたのためにと私がいただいた、神の恵みによる私の務めについて、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。」

 

 1節と14節の間にある物は全部、挿入句、横道です。祈りをする前に、パウロは奥義について話します。今、パウロは新しい体制のもとにあって、異邦人のための宣教師です。これは、神さまの救いの方法が変わったということを意味しているのではありません。

 

(エペソ3:3-4)「先に簡単に書いたとおり、この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよくわかるはずです。」

 

 その「啓示」は、彼が教会を迫害したとき、実際にはキリストを迫害しているのだ、とキリストが彼に言われた、パウロの回心のときから始まりました。教会はキリストのからだです。パウロは、神さまが何か新しいことをされることを知りました。ペンテコステの日に、教会が生まれました。

 

 今日私たちは、(I コリント4:1)「・・・神の奥義の管理者・・・」なのです。私たちは、メッセージを宣べ伝えるべきです。福音は、秘密の支部の中に留めておくべきものではありません。福音は、家の屋根の上から叫ぶべき、良き知らせなのです。エペソ人への手紙2:14-15では、奥義が何であるかを説明しています。

 

(エペソ3:5-6)「この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。」

 

 パウロは確かにここで、この奥義は自分だけに明らかにされたのではないことをはっきりさせています。今彼は、奥義とはどういう意味であるかをはっきり示します。過去の世代の人間の子らと教会の使徒たち、預言者たちとの間には、鮮明なコントラストがあります。「預言者たち」は明確に、新約聖書の預言者たちのことです。「御霊」、つまり聖霊がこの奥義の教師です。

 

 主イエスがご自分の弟子たちに聖霊が来られることを語られたときに、主が約束されたのはこのことです。

 

(ヨハネ16:15)「父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。」

 

 奥義とは、正確に言って何なのでしょう?異邦人が救われる、という事実のことでは“ありません”。旧約聖書ははっきりと、異邦人が救われることになると教えています。いくつかの箇所をひいて見ましょう。

 

(イザヤ11:10)「その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。 」

 

(マラキ1:11)「日の出る所から、その沈む所まで、わたしの名は諸国の民の間であがめられ、すべての場所で、わたしの名のために、きよいささげ物がささげられ、香がたかれる。わたしの名が諸国の民の間であがめられているからだ。──万軍の【主】は仰せられる──」

 

もし、異邦人が救われることになる、ということが奥義でないのなら、何が奥義なのでしょう?注意深く見てください。奥義は、異邦人とイスラエル人とが、“同じ基礎の上に(on the same basis)”置かれたことです。キリストにある信仰によって、彼らはどちらも教会である新しいからだの中に入れられたのです。その新しいからだのかしらはキリストです。ですから今、人間の種族の中には、三重の区分があります。ペンテコステの日から携挙まで、三重の区分は、ユダヤ人、異邦人、そして教会である。―2000年以上経過。

 

(エペソ3:7)「私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。」

 

 パウロは、異邦人のための使徒であるという事実によって、奥義の知識において自分が優越であると思ってはいませんでした。彼は、“ディアコノス(diakonos)”という肩書きだけを使います。これは「仕える者(minister)」と訳されていることばで、働き人、助け手、あるいは執事を意味します。彼は今、キリストのからだのメンバーなのです。達成されたすべてのことは、聖霊の力の働きを通してのものでした。パウロは使徒としての賜物と力とを兼ね備えていました。

 

(エペソ3:8-9)「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現が何であるかを、明らかにするためです。」

 

 神さまが私たちにはまだ教えてくださっていないことが一杯あります。天国に行ったときに、私は本当にものごとを学び始めるのです。啓示によらなければ人間が絶対に見つけることのできないことがあります。教会は、そのような意味で奥義なのです。

 

 パウロはいつでも、使徒として卑下した立場を取りました。パウロの生涯に、力強い革命が起こりました。彼は、異邦人たちの間に、捜し出すことのできないキリストの富を宣べ伝えるために選ばれたのです。何とすばらしいことでしょう!「明らかにするためです。」と書かれています。奥義とは、議論したり、論争したりするものではなく、宣べ伝えられるべきものです。そして、パウロはすべての人が奥義の体制(ディスペンセイション)を見るようにするべきなのです。

 

(エペソ3:10-11)「これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた神の永遠のご計画によることです。」

 

 奥義のもうひとつの目的がここに明らかにされています。神さまによって造られた知性的な存在たちは、教会を通して、神さまの知恵の一部を学んでいます。神さまの愛が示され、私たちに惜しまずに与えられるだけでなく、神さまの知恵が神さまの御使いたちに明らかにされることを知るのです。

 

(エペソ3:12)「私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。」

 

 私たち異邦人も、迫害者パウロも、神さまの御前に言論の自由と、神さまへのアクセス、または紹介を持っています。このすべては、キリストにあって可能になったのです。

 

(エペソ3:13)「ですから、私があなたがたのために受けている苦難のゆえに落胆することのないようお願いします。私の受けている苦しみは、そのまま、あなたがたの光栄なのです。」

 

パウロが列挙した奥義の偉大なゴールのゆえに、彼は異邦人のための使徒として、喜んで投獄の苦しみを受けています。パウロは、エペソ人たちにがっかりしてほしくありません。なぜなら、パウロの投獄は、彼のためには良く、エペソ人たちの栄光のためにもなっていたからなのです。

 

(コロサイ1:24)「ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。」

 

(エペソ3:14)「こういうわけで、私はひざをかがめて、」

 

 (訳注:英語ではFor this cause I bow my knees unto the Father of our Lord Jesus Christ つまり、「こういうわけで、私は主イエス・キリストの父なる神にひざをかがめて」)「こういうわけで」とはどういうわけなのでしょう?それはエペソ人たちに対する、パウロの深い心遣いのためでした。パウロは彼らに、私たちが生きているこのディスペンセイション、新しい体制の偉大な真理に入り、そしてキリスト・イエスにある神さまの恵みのすべての豊かさを経験して欲しかったのです。それが背景です。

 

 そのためにパウロは、1節と14節の間に挿入句を挟んだのです。私たちはすでに、パウロが祈りの人であったという事実に目を向けました。この祈りは、この書簡の中のパウロの第二の偉大な祈りです。彼は教会を、神さまのポエム、聖霊の宮、世々の奥義として見ていたので、祈りのうちに神さまのみもとに行き、これらの偉大な真理が信者たちの人生に現実となるように、と祈りました。ここには、パウロの祈りの姿勢が明らかにされています。

 

  私たちすべてが、今日、公の祈り会でひざをかがめるようにとは主張しません。でも、そのようにしたら良いのになあ、と思います。特に祈りの時には、神さまへのもっと多くの礼拝と恐れがあるべきだ、と私は感じるのです。造られたものとして、私たちは自分の創造者の前に適切な位置をしめ、神さまの御前にひれ伏すべきです。パウロはそのようにして祈りましたし、私はいつでもそれが適切な姿勢であると感じてきました。

 

もうひとつ、注目に値する大切な点があります。ここでパウロは、主イエス・キリストの御名によって、父なる神さまに祈りました。

 

(ヨハネ16:23)「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。」

 

 イエス・キリストは私たちの偉大なとりなし手です。イエスさまの御名によって祈るということは、主イエスご自身があなたや私のために父の御前に差し出してくださる祈りをもって、父なる神さまのもとに行く、ということを意味します。祈りは、短く、要点を得ていなければなりません。

 

(エペソ3:15)「天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。」

 

 神さまには、すばらしい家族があります。とても大ぜいの人たちが、私と私の家族だけ、と考えています。私たち4人だけ、ほかには誰もいらない、というやつです。でも、神さまの家族は、それよりもちょっと幅広いのです。神さまは、教会が存在するようになるずっと前から人々を救われました。そして、神さまは、教会がこの地上から去ったあとも、人々を救われるのです。同時に神さまの家族には、ほかのメンバーもいます。御使いたちは神さまの家族に属しています。神さまは、使徒ヨハネが見て、数えることができない、と言った知性的存在も創造されました。これらすべてが神さまの家族なのです。

 

(エペソ3:16-19)「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」

 

 ここには、エペソの信者たちのためにパウロがしている、四つの明確な嘆願があります。

1.最初の嘆願は、神さまが「御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように」というものです。信者の霊的な性質には、肉体的な性質と同じように祈りが必要です。どれほどしばしば、すべての注目が肉体的な側に向けられ、霊的なことがおろそかにされることでしょう。パウロは、内なる人のために祈ります。なぜなら、彼は外側の人は、過ぎ去っていくものであることに気づいているからです。クリスチャン生活を送り、恵みのうちに成長し、完全に成熟したものとなるためには、力が必要なのです。この力を与えるのは、聖霊の働きです。

 

2.第二の嘆願の中で、パウロは祈ります。“キリストのうちに”というのは、この書簡の重要なことばです。これは、主の考えを考えることです。キリストのうちに、というのが私たちの地位です。キリストが私たちのうちに、というのは私たちに与えられた所有です。実際的な面です。キリストは一時的な訪問客として来られたのではありません。主は永久的な住居人として、私たちの人生に住まわれるために御霊という方法で来られました。

 

3.三つ目の嘆願は、知識の広さ、長さ、高さ、深さを知るようにというリクエストです。その知識は、人知をはるかに越えたキリストの愛を知る知識です。彼らは「愛に根ざし、愛に基礎を置いている」のです。「根ざし」とは植物学でいのちを指します。「基礎を置く」とは、建築で、安定性を指します。これは、すべての聖徒のためです。

 キリストの愛の広大な広がりは、神ご自身の愛です。これを足がかりとして、私たちは、測ることのできないもの、そして知識を越えたものを測り始めることができるのです。信者の人生の中の多くのパラドックスのひとつです。

“広さ”とありますが、キリストの腕は、世界中に届くことができます。

“長さ”とありますが、愛の長さは、世界の土台の据えられる前からほふられた小羊なる方から始まり、終わりのない永遠へと進んでいきます。

“深さ”とありますが、深さは、ずっと十字架の上でのキリストの死にまで至ります。

“高さ”とありますが、高さは神さまの御座にまで届きます。聖霊だけが、信者をキリストの愛の広大な広がりに導き入れることがおできになります。キリストの愛は無限なので、人間の理解を超えています。

 

4.4つ目の嘆願は、信者たちが“神ご自身の満ち満ちたさまにまで、・・・満たされますように”という、とても強烈な情熱の最後のほとばしりです。キリストはこのように満たされました。キリストの愛の理解に比例して、私たちは神さまの満ち満ちたさまにまで満たされなければなりません。

 

(エペソ3:20-21)「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。」

 

 この箇所は、パウロの祈りを締めくくる、頌栄であり、また祝祷でもあります。同時に、この箇所はこの書簡の最初のおもな区分を締めくくっています。 これは、どんなコメントもこれを曇らせるだけになってしまう、霊的な賛美の力強いほとばしりです。私たちは、神さまがご自分の者たちのために用意しておられる、霊的な賜物の衣のふちにさえも触ることができません。神さまは私たちに有り余るより以上に与えたいと思っておられます。神さまは何と恵み深く、私たちは何と小さいことでしょう。私たちは、神さまの祝福のすべてを、自分たちのうちに容れることすらできないのです。

 

※ 是非、引き続きブログテーマ 「エペソ人への手紙」 をお読みください。

 

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神の御子イエス・キリストは、罪深い人間の身代わりに、十字架で死なれ、死の力を打ち破ってご復活されたまことの神、救い主なる御方です。

 

    
キリストは罪人である私たちの身代わりとなられ、十字架にかかり、死んでくださり、墓に葬られ、ご復活されました。その神の御子なるお方イエス・キリストを真の神、救い主と信じ受け入れることによって、私たちの罪がゆるされ、永遠の地獄の裁きから救われます。これが罪のゆるし、死後の裁きからの救いの福音です。

 

※ 約5分の救いのためのメッセージ動画です。是非ご覧下さい。

 

 

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