-  2章 教会は宮である。宮の建設のための材料。建設の方法。建設の意義。 -

 

※ 死後のさばきから救われるための福音をYOUTUBE動画で見れるようにしました。

   主イエス様のお力をお借りし、完成しました。是非ご覧ください。

   これをご覧になった全ての方がイエス・キリストを信じ救われますように。

 

 この章は、小さな接続詞“and(そして)”で始まります。(訳注:日本語には訳されていません)ですから実際、この章は、1章の思想の続きなのです。パウロは、イエスさまを死からよみがえらされた、ものすごい力のことについて話して来ました。私たちは、この力が、私たちが咎と罪の中に死んでいたときに私たちをキリストにあって生かしてくださったのと同じ力であることを理解しなければなりません。

 

 私たちを咎と罪の死から生かしてくださるには、力が必要なのです!そこには、“よみがえりの”力が必要です。とても多くの神さまの子どもたちが、この力を経験したいと願っているのです。書簡が語っている神さまの力は、イエス・キリストに立ち返る人の人生の中に神さまが解放される力なのです。神さまはその人を霊的な死から、霊的ないのちへと引き上げられます。この力は、キリストによってこの世に示されるものです。

 

 今日、主イエスはこの世の中で、ご自分の教会を通して力を示されます。教会には儀式もありません。教会は、聖霊が生ける石を通して動かれる、機能的な機関なのです。教会時代の 印象的な事実は、神さまがひとりひとりの信者のうちに住んでおられる、ということです。

 

(エペソ2:1-2)「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」

 

 世俗主義に従い、この世の方法に従い、あるいはこの世の原則に従って歩んでいた、ということです。「世」とは、物理的な宇宙(universe)を意味しているのではありません。今日の世界の、宇宙(cosmos)、社会、文明、生活パターン、ライフ・スタイルを意味しています。

 

 悪魔は、このいのちのない物質(私たちは咎と罪の中に死んでいたのです)をとり、私たちを活気付けます。偽の宗教家たちは、その熱心さでは私たちが恥ずかしくなるほどです。サタンが彼らに活力を与えているのです。サタンは、聖書の中の奇蹟のうちのかなりのものをコピーすることができます。人間が新生し、神さまとの近しい関係の領域に入ったとき、サタンはその人に対して何の力もありません。でも、サタンは今日、惑わし、だまし、人々を迷い出させる力があるのです。

 

(エペソ2:3)「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」

 

 アダムの罪は、私たちを堕落した人間の子どもたちにしました。そして、私たちにはアダムが持っていた、同じ性質があるのです。この性質には、神さまを受け入れる能力も、神さまに傾むく傾向もありません。神さまを疑い、不従順になった日に、アダムは霊的に死にました。彼は神さまから逃げ、隠れようとしました。彼は神さまを探してはいませんでした。

 

 今日、生まれたままの人間は、そのような状態です。。霊的な死は、神さまからの分離です。人間が罪を犯したあと、肉体的、精神的には生き続けることができましたが、彼は神さまから分離して、霊的には死んでいました。彼は、その同じ死んだ性質を、自分のすべての子孫に受け継がせたのです。今日、この世の人間の良心をとがめることができるのは、有罪と宣告する、聖霊の働きだけです。あなたにもできないし、私にもできません。神さまの御霊だけがおできになるのです。

 

 「神である主よ。私は、自分が無力で絶望的であることを認めます。私は、墓場に向かって説教をします。ここに座っている多くの人たちは、咎と罪の中に死んでいます。ああ、神さま。もし神さまの御霊が動いてくださるならば、私は力強くなることができます。」死んだ人間が聞くことができるように語ることがおできになるのは、神さまの御霊だけです。ありがたいことに、神さまの御霊は確かに働かれ、死んだ人間たちが聞くことができるように、続けて働いておられます。

 

 この世に住んでいるあなたも私も、墓場に住んでいるということをご存知でしたか?人間は死んでいるのです。私たちはただ、神さまの水準には、全く達することができません。それが私たちの状態です。咎と罪の中に死んでおり、サタンによって活気付けられています。それが私たちが救われる前を説明しています。そして、ひとりひとりの救われていない人は、この世を歩き回っている、霊的なゾンビなのです。不従順の子らを活気付ける霊、空中の権威であるこの世の君に従って歩んでいたのです。この世の君とはサタンであり、サタンは人々を引っ張りまわします。

 

(I ヨハネ2:15-17)「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。」

 

 しかし、あわれみ豊かな神さまは、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かしてくださいました。神さまはあわれみ“豊か”です。この方は無限のあわれみ豊かな、無限の神さまであられるので、ありあまるほどのあわれみをもっておられるのです。神さまは、人間が必要とするものを持っておられます。神さまはあなたの必要を持っておられます。ただひとつの条件は、あなたが神さまを信じる、ということです。神さまはあなたを愛し、私を愛しておられます。でも、神さまは私たちを、ご自分の愛によって救われるのではありません。恵みによって救われるのです。

 

(ヨハネ3:16)『 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』

 

 『彼はあなたのために死んだのだから、もしあなたがわたしの子を信じるなら、もし、あなたがその根拠でわたしのところに来るなら、わたしはあなたを救うことができるよ。』神さまはボクたちをご自分の愛によってお救いになるのじゃない。神さまは、ご自分の恵みによって、ボクらを救われるんだよ。」

 

 もしあなたがキリストを通して神さまのところに行くなら、神さまはあなたをお救いになり、あなたは神さまの愛を経験することになります。神さまはあわれみに富んでおられるからです。神さまは私たちを、霊的な墓場から引き上げてくださいました。私たちの現在の状況は、神さまが私たちを「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださ」った状態です。

 

(エペソ2:7)「それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。」

 

 「あの、マギーってやつを見てごらん。彼は失われていて、救われる価値はなかったんだが、今は天国にいるんだよ。神さまの恵みと慈愛によってだけ、彼は救われてここに連れて来られたんだ。」そのことが永遠に渡って、神さまへの賛美になります。私は何の称賛も受けませんが、でも、そこにいるのです。それだけで十分です。私は、神さまが私を救ってくださったので、御使いたちの軍勢に入って神さまに賛美を歌います。私が知っている限り、それは私たちが持っている、最もすばらしい期待です。この期待は、恵みによるのです。

 

(エペソ2:8-9)「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」

 

 恵みは、価値のない者、それに値しない者に授けられた恩恵です。もしあなたが神さまの子どもであるなら、神さまから離れることがあっても、神さまはいつでも戻って来る道をあなたのためにこしらえてくださいます。なぜなら、あなたが救われているのは、神さまの恵みだけによっているからです。あなたには、完成した救いがあるのです。キリストがあなたのために成し遂げてくださったこと、そして、聖霊があなたをキリストに向けさせられ、あなたが神さまのみことばを信じ、神さまを信じたという事実に基づいて、あなたは、「私は救われている。」と言うことができます。

 

 この救いは、「そうだと良いな。」とか、「がんばってみます。」というような救いではないのです。救いは、神さまの恵みのゆえに、信仰によって与えられた救いであって、あなたから出たことではありません。神さまの賜物なのです。

 

 もし、罪人のために、すべての侵害された正義と聖さが要求することを、愛が恵み深く供給することができるのなら、完全な身代わりの犠牲がささげられた人々のために、神の愛は制限なしに自由に行動することができる。それは、十字架上でのキリストの業績である。一方、救いにおける神の恵みは、罪に対する正しいさばきを通してすでに確保された自由に基づいて、罪人のために行動しておられる神の、制限のない慈悲深さである。この慈悲深さは、キリストによって、犠牲の死のうちに確保されたものである。神の愛は、救いたいと望むが、愛は公正をもって救うことはできない。しかし、神の恵みは自由に行動できる。なぜなら、キリストが死なれたからである。神の永遠の目的は、神の“愛”だけの現れなのではなく、むしろ神の恵みの現れである、ということに注目するべきである。神はご自分の無限の宝箱の中から、何の制限も妨害もなく、罪人たちに恵みを惜しまず与えられるのである。

 

 さて、信仰は救いの手段となる理由です。信仰は、罪人が偉大なる救いの取引の中に持ってくる、唯一の要素です。でも、信仰も神さまの賜物です。「信仰は神さまの賜物であり、神さまが私に信仰をくださらないのだから、もし私が信じないとしても、私のせいではない」と誰かが私に言うことは分かっています。答えはこうです。神さまは、信仰は聞くことにより、聞くことは神さまのみことばによる、ということをとてもはっきり示されました。

 

 もしキリストを信じたいのなら、神さまのみことばに耳を傾けなければなりません。福音のメッセージに注意するすべての人に、神さまは信仰をくださるのです。心が主に向くのなら、おおいは取り除かれます。いつでもあなたがキリストに向く用意ができたときに、キリストに向くことができるのです。あなたの問題は、それではありません。あなたの問題は、聖書が有罪と宣告する自分の罪をあきらめたくないことにあります。

 

 いつでも自分の罪にあきあきしたとき、自分に、この世のことに、宗教に、聖書が有罪とするすべてのことに背を向けて、キリストに向きたいとき、そのときにあなたには信仰が与えられるのです。あなたは主を信頼することができます。彼らには知的な問題よりも、道徳的な問題があるのです。今日、罪こそがとても多くの人たちの心の中の本当の問題です。 多くの聖徒たちでさえも、まさにその理由で、自分たちの救いを楽しむことがありません。

 

 信仰は、救いの手段です。キリストの血潮と、みわざがあなたを救うのである。キリストにこそ力があり、キリストにこそ救いがあるのです。救いは、自慢を取り除く賜物です。すべては神さまによるのであり、私たちによるのではないのです。神さまの“賜物”です。

 

(エペソ2:10)「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」

 

 教会は主のポエム、主の新しい被造物です。パウロはここで地域教会のことを話しているのではありません。むしろ、ペンテコステの日から、携挙の日までの、“本当の”信者たち(そして、そのほとんどは、地域教会のメンバーです)のことについて話しているのです。その信者たちの集まりが、神さまの作品であり、キリスト・イエスにある新しい被造物なのです。私たちは何のために造られたのでしょう?良い行いのためです。私たちは、キリスト・イエスにあって天のものたちの中に座していますが、この地上にあっては、主の御名に栄光を帰するように歩むべきなのです。

 

(エペソ2:11-12)「ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。」

 

 さて、神さまの宮としての教会の建設の方法です。この箇所には、異邦人のみじめな分け前と絶望的な苦境とが説明されています。同時に、どんな人でも、失われている人の正確な姿でもあります。失われている、とは、次のようなことを意味します。

 

1.「キリストから離れ」―これは、失われた人間の最適な説明です。キリストに“ある”ことの逆です。

 

2.イスラエルの国から除外され」―あるいは、イスラエルの市民権から遠ざけられ。異邦人の正確な定義です。異邦人には、イスラエルが持っていた神さまから与えられた宗教がありませんでした。彼らには、旧約聖書に戻って神さまがイスラエルにされた約束を取り、その約束を横領する権利はありませんでした。私たちにもその権利はありません。神さまはこの約束を私たちにはされませんでした。

 

3.「約束の契約については他国人であり」―神さまは、イスラエルの国に対して一定の約束をされました。神さまがイスラエルと結ばれた契約は、今も有効ですが、どんな異邦人もそれを横領する権利は持っていないのです。

 

4.「望みもなく」―世界の宗教を見てください。そこには望みはありません。それらの宗教はよみがえりを約束することはできないし、死んだあとに何が起こるかについては、かなりぼんやりしています。

 

5.「この世にあって・・・神もない人たちでした。」人間が神さまを離れて立ち退いたことを意味しています。

 

(エペソ2:13)「 しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。」

 

 今は、キリストにある異邦人にとって、すべてが変わりました。以前の彼らはキリストを持っていませんでした。今はキリストの中にあります。彼らを神さまから引き離していた距離と隔ての壁とが取り除かれたのです。彼らは、自分たちの努力や功績によってではなく、キリストの血によって近い者とされました。

 

(エペソ2:14-17)「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。」

 

 あなたがイエス・キリストのもとに来たとき、あなたはからだの中に入れられただけでなく、神さまの御前に誰とでも同等に立つことのできる場所に入れられたのです。私はあなたと共に、あなたも私と共に平等の間柄で立つのです。ですから今日、何を根拠にしたとしても、決して信者の中に分離点があってはなりません。私たちはキリストにあってひとつとされました。あなたが誰であるかは何の違いももたらしません。もしあなたがキリストにある信者ならば、あなたと私は永遠にいっしょなのです。だとすれば、この地上にいるときから、ときどきお互いに話しをする、というのは良いアイデアだと思いませんか?

 

 この箇所のコントラストは、ユダヤ人と異邦人の間のものです。主イエス・キリストこそ、彼らの間で平和となられた方です。間の壁、塀、あるいは仕切り、お互いの間の敵意は、打ち壊されました。主は新しい人間を造られました。私たちはキリストにあってひとつにされました。それは、私たちが神さまとの間に平和を持ち、同時にお互いの間にも平和を持つべきであることを意味しています。ユダヤ人と異邦人がキリストのうちにおかれたとき、そこには平和があります。新しい立場のせいだけでなく、同時に何か新しいことが生まれたので、そこには平和があるのです。パウロはこれを新しい人、としています。

 

 実例で説明しよう。ここに、ふたつの像があったとしよう。ひとつは銀、もうひとつは鉛でできている。そして、両方とも溶かされて金になって出てくるということだ。そのようにして神はふたつをひとつにされたのである。ユダヤ人も異邦人も、同じ罪の状態にあるからです。実際私たちは、すべて罪人としての兄弟、すべてアダムの子どもたちです。新しい人、キリストのからだ、聖霊の宮になります。

 

 今私たちは、キリストを通して直接、父なる神さまの御前に入って行きます。主のところに行く人々は、自分たちの小さな部門から取られて、別々の、部門のない新しい宮である、キリストのうちに入れられます。十字架が塀を溶かし、福音が遠いところにいた異邦人たちと、近いところにいたユダヤ人たちに語られます。ここには、何とすばらしい状況が描かれていることでしょう!

 

(エペソ2:18)「私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。」

 

 あなたは、この短い節が、重要な節だということに気づかれましたか?小さな原子のようです。この中には三位一体があります。ユダヤ人も異邦人も、罪人として、十字架の足元の同じ立場にいます。それに加えて、キリストを通して、ユダヤ人も異邦人も、神さまに平等に近づく道を持っています。それは、どんな人間にとっても、栄光に満ちた特権なのです。どの信者も、ほかのどの信者とも同じように、神さまに近づく道を持っています。

 

(エペソ2:19-20)「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」

 

 私たちは今、市民仲間です。私たちは、今現在、天に属しています。私たちは「使徒と預言者という土台の上に建てられて」います。これは重要なことです。これは、使徒と預言者とが土台だ、という意味ではなく、彼らが個人的に土台を据えたことを意味しています。初代教会は、使徒たちの上に教理をたてました。

 

(使徒2:42)「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」

 

預言者が使徒と同じ分類にはいっており、“定冠詞(the)”がついていないところ見ると、新約聖書の預言者たちを指しているようです。「キリスト・イエスご自身がその礎石です」という部分が、教会がその上に建てられた岩は、キリストである、ということを明らかにしています。

 

(マタイ16:18)「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」

 

イエスさまはご自分のことを話しておられたのです。主こそが、教会がその上に建てられた岩なる方なのです。使徒と預言者とが土台を据えました。そして、キリストが礎の石、岩なる方です。

 

(エペソ2:21-22)「この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」

 

 彼は、ひとりひとりの信者が、全体の構成の中に当てはめられることを意味しています。私たちは当てはめられ、霊的な家に築き上げられる石であると書いたとき、ペテロも同じように表現しました。(I ペテロ2:5参照)今日教会は建設中です。そして、完成するのです。「建物の全体が成長し」教会は、主にあって聖なる宮に成長して行っています。このことは、まだ教会が完成していないという事実を確認します。構成もまた違います。熱意なく、ただひとつの石がほかの石の上に積まれているのではないのです。この宮は成長しています。

 

 神さまは死んだ材料、咎と罪の中に死んでいた材料をとって、それにいのちを与えておられます。生きた、新生した石が、生きた宮に成長して行っているのです。聖霊は静かにひとりひとりの死んだ罪人を、新生とバプテスマによって生きた宮に組み入れておられるのです。教会は、「聖なる宮」または聖所と呼ばれます。聖霊がその中に住んでおられるので、聖なるものなのです。聖霊のバプテスマによって、救われた罪人は「主のうちに」置かれます。聖霊が、ひとりひとりの信者のうちに住まわれます。

 

 キリストのからだである教会は、神さまの御霊の「御住まい」であり、永久の宮です。信者たちが礼拝のために建物の中に集まるとき、聖霊がそこにおられます。その意味では、神さまはその建物の中におられます。でも、ひとりひとりの信者がその建物を去ったとき、神さまもそこを去られます。今日、神さまは建物にではなく、信者のうちに住んでおられます。宮としての教会の目的は、地上で神さまのご臨在とご栄光を明らかにすることです。信者たちが教会に共に集まるとき、この時代であっても、この世に対して神さまはご自分の聖なる宮におられると言う印象を与えるべきです。この世は、教会の礼拝の中に神さまを見つけることができる、と感じなければなりません。

 

 私の質問は、‘神さまはそこにおられるでしょうか?’ということです。もし、神さまが確かにそこにおられることを確信したなら、もっと多くの人々が教会に惹かれることでしょう。

 

※ 是非、引き続きブログテーマ 「エペソ人への手紙」 をお読みください。

 

※ 約5分の救いのためのメッセージ動画です。是非ご覧下さい。

 
    
キリストは罪人である私たちの身代わりとなられ、十字架にかかり、死んでくださり、墓に葬られ、ご復活されました。その神の御子なるお方イエス・キリストを真の神、救い主と信じ受け入れることによって、私たちの罪がゆるされ、永遠の地獄の裁きから救われます。これが罪のゆるし、死後の裁きからの救いの福音です。

 

是非お近くの方は「聖書のみことば、罪のゆるし、死後のさばきからの救いのメッセージ、福音」を聞きにお越しください! 

 

 

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このブログは下記マギー博士のラジオ番組のメッセージを引用しております。