ぜん馬と夫人のさこみちよ。

談志のネタ2

『黄金餅』

十八番でしばしば高座に掛けた。これも談志写しである。

”苦しめ、苦しめ!めえっちまえ!”

”金兵衛さん……見・た・な?”

”ケツから棒突っ込んじまおうか”

”仏の遺言でね、普段から下痢腹らしく、あんまり焼いてほしくないんだって”

下痢腹なら良く焼いた方が良いような気がするが。

”焼けたか!焼けたか!”

このセリフ、ぜん馬の御骨上げの時に頭で響いて仕方なかった。

 

立川談志と神田伯龍(2005年8月15日)

イキと間がそっくりであった。そして貧しさ、飢え、夜。

こうした手で触れられないものを表現することはお手の物であった。

道中付けを現代の風景でもやってくれた最後が2021年のコロナ真っただ中(2021年6月13日”惡漢集合”)。

その風景でさえ、2024年の今現在ですっかり様変わりしているから世の流れは恐ろしい。

 

その時の出演者一同の集合写真。悪漢特集だから悪そうな顔でお願いします。

悪いというより何となく笑ってしまう写真になった。

ぜん馬の考えだと下谷山崎町から広小路に行くには”三橋”を通る筈。”三枚橋”だと遠回り。

”と談志にも言いまして、素直に従っていました”と言うが古い談志の録音だと三枚橋である。

ラストで焼場が桐ケ谷(きりがや、古くは霧ヶ谷。駅で言うと五反田や不動前。今も桐ケ谷斎場がある。有名人の弔いで知られる。三島由紀夫、大平正芳等)なのに金兵衛さんが新橋で夜明かししているのは、随分遠いから疑問に思っている。

最も新橋というのは鉄道発祥の地ではなく、あちこちに数多ある○○新橋なのかもしれない。

 

『蔵前駕籠』

NHKの新人落語コンクールで最優秀賞を貰ったのもこのネタ。

コンクールの日は朝まで呑んでいたという(好楽師匠と)。

晩年も良くやっていて、芸術協会の定席に混ざる時もよく聞かせてくれた。

ある時、談志から"師匠(小さん師匠)が怒っているぞと言われて恐る恐る小さんを訪ねると別に怒っていないんです。

『蔵前駕籠』の下げ方について小さん師匠が話してくれました”。

”駕籠の垂れを浪人が刀でまくる、すると客がヌッと駕籠から顔を出して突き出す。中じゃあ裸だ、そこで浪人がもう済んだかで下げるだろ。あれはね桂文治(八代目)が物凄く長い顔で顎を突き出したから面白いんであって、みんなやっているけどあの顔じゃないとダメなんだ”

とのこと。それ故にぜん馬の『蔵前駕籠』は他と違う。手順を述べると

【駕籠の垂れを浪人が刀でまくる。浪人は駕籠の中を窺って(中の裸の男を確認して)、刀を下げたまま(正面を切って、この形がカッコいい、居合をやっていただけある)、オオッ、もう済んだか】

これは結構高度です(難易度を上げたやり方)。

下げが解りにくくなるとぜん馬も言う程でしたが、小さん師匠に言われたんだからと浪人が目いっぱい目を剥いて驚くぜん馬の顔が目焼き付いている。

 

*この「談志のネタ」の項は書くことが尽きませんなあ。

 

ぜん馬の名跡

立川姓で良い名前、古い名前が少ないために前座の頃から狙っていた名前が”ぜん馬”。

二つ目昇進時にぜん馬になるOKを柳家小さん(五代目)師匠から貰っていた。

しかし小さん師匠が翻意して、”やはり真打名前だからダメだ、真打になる時は約束するから”

と言い出し、従った。

”当時は三遊亭圓馬師匠(四代目、先代ぜん馬とは三代目圓馬門下で同門)もご存命だったし”

とはぜん馬の弁。で圓馬一門ゆかりの朝寝坊、芸名はのらくで二つ目になる。

 

先代である五代目立川ぜん馬は長命で三代目圓馬のネタ(大阪ネタも)を多く後輩に教えている。

特に『鼠穴』と『肝潰し』はこの人が中継してくれたお陰で今に伝わる。

その二席ともぜん馬は十八番としている。

 

先代立川ぜん馬

桂小金治も『渋酒』を教わっていると直接聞いた。確か『いがぐり』もそうだった。

その芸風は大西信行の著作によると、圓馬のレコードを正岡容が門人に聞かせたところ、

一同は今のぜん馬さんにそっくりですねと感想を漏らす。

”ぜん馬さんは圓馬の声まで真似しているが迫力が全く違う”と正岡容が嘆いていたとある。

 

先代ぜん馬を実際に聞いている加藤武によると

”今のぜん馬の方が間違いなく上、前のぜん馬は面白くなかった”とのこと。

録音はその『鼠穴』が唯一遺っていて、これはかなりの人が参考にしている。

 

晩年は予備が多く、耳がかなり遠く前に出たネタを平気でやったりで困ったと先代林家正楽師匠(春日部の)が

バカにした感じで書いている。先代柳亭燕路は『近江八景』を教わったというからさもありなん。

 

ぜん馬は律儀に先代の墓参りを欠かさず追善興行も行っている。

先代没後にお墓を守っていたのは高橋栄次郎(落語協会事務員、元柳家小三治)でこの人が亡くなってからは

全く墓を訪れる人も居なくなっていたようだと聞いた。

*先代ぜん馬の写真は今はなき新宿御苑の古本屋昭友社書店で落語関係のスクラップブックが大量に売られていた。

かなりの値段だったが余さず買ったものの中から。

 

*立川姓 ○○家、○○亭と違い、立川を亭号、屋号に加えるのは少々違和感がある。

立川の開祖である烏亭焉馬は堅川に住んでいたところから、堅川焉馬と称することもあった。

それが転じて立川となった。これは絵師や職人が雅号と住所をセットにする習慣に類すると思う。

だから”姓”とも言えないかもしれない。また堅川はぜん馬の住まいの近くであることも感慨深い。

 

真打昇進

1982年(昭和57年)11月真打昇進(落語協会)。

同時昇進は古今亭志ん五、古今亭志ん橋、三遊亭圓好、春風亭一朝、三遊亭小金馬、柳家せん八、立川談生、立川左談次、吉原朝馬。

六代目立川ぜん馬を襲名。”六代目ってのは名人が多いから良いね。名人じゃない六代目もいるけど”

抜擢での昇進であった。

しかし、それより前にも柳家権太楼、古今亭志ん橋と三人で抜擢される話があった。

”志ん朝師匠は、総領の志ん五が昇進を断っている状態だからと断り、談志は自分自身が抜かれて嫌な思いをしたから弟子は順番に真打にすると言って断った”。

”ちょっと真打が遅れるくらい何でもないことで気にしなかった”とぜん馬は言うが心中はいかばかりか?

昇進1年後に談志一門は落語協会を脱退することになる。

”真打昇進で掛かった費用を、さあ回収しようという矢先でねえ”

 

続く……随時加筆修正します。*禁無断転載