一龍齋貞山先生が亡くなりました(この記事は順次追記を致します) | 有限会社宮岡博英事務所のブログ

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貞山先生も亡くなってしましました。5月26日没。

4月23日の落語カフェの高座では『秋色桜』と『寛永寺の昇り龍』でしたが、一席目が終わっても

高座から降りられない程でどうなっちゃったのかと思いました。『昇り龍』も机の両端を両腕で掴まえながらの

高座で心配でした。終演後も高座からそのまま動けず、これは普通じゃないと思い、救急車呼んだらと申しましたら

「救急車には懲りているのよ」とか仰って、丁度その夜はイイノホールで幸枝若出演の浪曲大会に呼ばれていたので去らねばならず、

丁度貞山先生の御友人がおられたので後はお任せして失礼したのでした。

 

弊社での最後の高座はその落語カフェから一週間前の4月15日で稽古会と銘打っての第一回。

『日蓮記』と『文化白浪ー狂歌小僧ー』

この時の『狂歌小僧』は凄みあるもので、世話物のほの暗い恐ろしさというのはあんまり貞山から感じたことはなかったので

これは凄いなと思ったものです。

いつもキレイでカッコよく、硬いけれど、これが講談という貞山先生。

ネタ数は物凄く多く、それでも「俺は昔の人ほど連続物持っていないから」と謙遜しておりましたが

入門から全ての演目をメモしておられ、あの時、この時、何をやった。とキッチリ把握しておられました。

照れ屋であんまり、自慢話や演出の話はしないようでいて、実は熱いファイトがあって、水を向ければ

うんと饒舌に話してくれました。実父七代目貞山と養父伯龍を常に意識し、両方の良いところを狙っておりました。

 

あんな硬い顔をして楽屋や移動中の会話も面白い。

今年の2月の文芸演芸会でも桂小右治さんが、「前座に向かって”待ってました”と声を掛けるお客さんがいる。ビビッて出来なくなる」

という話をしていると

「何でよ?待っててくれて有難う。と言やあ、良いじゃないの」

こりゃ噴き出しました。

 

「俺も若い頃は早く爺さんになりたかったのよね。爺さんになれば巧くなれると思ってたから。だけど、爺さんになってみると

これが巧くなっていないんだよな」

 

「湯島(貞水先生)から貰った仕事で、パチンコの仕事をしてきたのよ。”確変”とか録音してきた。色んな仕事があるもんだ」

確か次郎長を扱ったパチンコだったような。パチンコ好きな方は探してみてください。隠れギャンブラー(隠してもいなかったでしょうが)貞山先生に応援して貰ってツクかもしれません。

 

貞山好みの芸人。貞山先生は他の芸人さんの芸の分析や感想をあんまり正面切って話しませんでした。

そこが伯龍や談志師匠のように「マニア出身」の芸人と違うところで、講談の家に生まれ育った貞山にとって芸人はあくまで稼業な訳です。

他人様の芸を語るなんてことはダレる訳です。しかし、興が乗ると饒舌に話してくれました。驚いたのは松平國十郎先生!

「俺は好きだったから芸人になって、お目に掛った時、思わず先生のこと好きなんですと言いましたよ。一体俺のネタで何が好きなんだ?

と睨まれたから、ちゃんと話しましたら喜んで話してくれましたよ」

落語家では何と三遊亭圓遊(四代目)!ずっと以前に貞山先生が所有する講談の音源をデジタル化した方が「なぜだか講談の音源に交じって圓遊さんの音がやたらと入っている」と聞いたので貞山先生にぶつけましたら「あの軽さが好きでね。何でも面白かった。”抜け裏”とか”噺家の夢”、”お見立て”なんかね」

へー、こういう趣味もありました。
 

少年時代は劇団ひまわりに所属して、今井正監督の社会派映画『キクとイサム』にも出演(どの少年か見つけてみてください)。

当時は佐藤貞夫ちゃん。

 

思えば伯龍よりも長い付き合いになっており、伯龍没後は指針として日頃から色々教えを受けご相談もしました。

惜しい、早すぎる。運命を呪うばかりです。