神霊との交流で注意すべきこと | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

(Ruth Welch)

 “……自分は「○○である」とか「××である」などと神話や歴史上の神々や大人物の名を名乗るような霊魂は例外なく低級であるとみてよい。反対に、姓名を明かそうとしない霊魂は大体まじめで謙虚な高級霊か、少なくとも高級霊の監督下にある者とみてよさそうである。姓名を明かそうとしないのはやましいところがあるからではなく、名前とか宗派といった表面的なことよりも、自分の説く思想そのものに注意を向けさせようとする意図があるからである。

 しかし、自分の背後霊が確かにまじめである、あるいは高級霊であると確信しても、自分の背後霊を絶対視して、それに偏ることは好ましくない。それは他の霊媒を援助している別の高級霊を無視することになり、不敬であると同時に自分の進化向上の道を狭めることにもなるからである。

 いかに立派でも自分の背後霊も無数の霊魂の中の一人にすぎないこと、つまり他にもまだまだ立派な霊魂がいくらでもいることを忘れてはならない。高級霊になるほどその点をよく自覚しており、なるべく自己一身上のことは避けたがるものである。姓名を名乗りたがらない理由もその辺にある。

 講演霊媒はエーテル界の思想が直接人間界に流れ込む大切な通路である。ある人は霊媒を篩(ふるい)にたとえて次のように言っている。

 「霊媒の頭脳と思想との関係は篩と砂とに似ている。篩の目が粗いと、それを通る砂にも目の粗いものが混じる。目が細かいと、きれいな細かい砂が取れる。霊媒も同じである。勉強も精進もしない霊媒を通して得られる思想は低級でお粗末である。知性を磨き心の修行を積んだ人間からは考証で麗しい珠玉の思想が得られるのは当然といえよう」

 これは霊媒にかぎらず全ての人間に適用する得がたい教訓である。”

 

(「心霊研究」2014年1月号 ルース・ウェルチ著(近藤千雄訳)『霊能開発の基本的心得(4)』より)

 

*ここに紹介させていただいたのは、霊と直接接触しようとする『霊媒』の方々について述べられたものですが、霊的なことに関心のある多くの方にとっても参考になる内容だと思います。

 

*神霊との交感・交流においては常に審神者(サニワ)がいかに重要な存在であるかが説かれますが、審神者となるためには単に神様を拝んでいればよいというわけではなく、霊的な修行とともに、古事記や日本書紀はもちろん、数多くの神書・霊学書、古典を読破し、更に歴史や医学、政治経済や世界情勢、現在社会が直面している様々な問題に至るまでの幅広い知識が必要であり、生涯をかけて学び続けなければならないとされています。よく内容を吟味できない者に高次の世界からの直感がもたらされるはずがなく、せめて、ある程度の自己審神ができなければ、あるいは身近に審神ができる人物がいないのであれば、原則として高級な神霊が接触を求めてくることはありません。純粋で清らかな心の持主や、何かの使命をもっておられる方であれば、例外としてあり得るでしょうが、そのような場合は神霊は自分の存在を極力気づかれないようにし、本人が知らず知らずのうちに導かれていくように仕向けるはずです。また、たとえ高級霊であっても決して主なる神(天帝)ではなく、崇拝の対象ではありませんし、崇拝を要求してくることもありません。

 

・「神様を知ろうと思えば」  〔出口王仁三郎聖師〕

 “……天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)の神徳を知ろうと思えば、日本神代史の研究は勿論の事、希臘(ぎりしゃ)、羅馬(ろうま)の神話も、基督(きりすと)教も、回々(ふいふい)教も、婆羅門(ばらもん)教も、支那の道教も、儒教も、西洋の諸学術も、悉く調べて見て、そして造化の宝蔵を敲いて見ねばならぬ。無論これは、一人や十人では出来ない。一宗派、一専門の士では不足だ。いやしくも霊智霊能あるもの、誠心誠意あるものの全部が、総がかりで取掛からねばならぬ問題である。それ丈努力討究しても、尚お僅かに神の大業の百千億分の一を想見することしか出来ぬのである。”

 

(「出口王仁三郎著作集 第一巻」読売新聞社 『信仰の堕落』より)

 

・「直感」は吟味されねばならない 〔スウェーデンボルグ〕

 

 “真理に関して一瞬で納得すること、何らの疑いも残さないほど真理が一瞬に確認されることは、だれにも許されないことです。それは秩序の法則に反します。理由は、そのように植えつけられた真理は、鵜呑みの真理になり、広がりがなく、余裕のないものになるからです。来世ではこのような真理は、鈍重なものとして表象されます。それ自身適用が利く善を受け入れない性格があります。したがって来世で善霊たちの眼前に、ある種の真理が明確な経験をとおして提示されると、それに対立するものがすぐさま提示され、これが疑いを呼び起こします。このようにして善霊たちは、それがはたして真理かどうか吟味するチャンスが与えられます。つまり論拠を集め、その真理を自分の心に合理的に納めることになります。このようにして、その真理に関する限り、対立するものも含め、本人の霊的視力に広がりが生まれます。こうして理性によって真理の性格の全容を見、感じとることができるとともに、物事の状態に応じて天界から流入があるのを認めます。つまり真理は状況にしたがって、さまざまな形を帯びるわけです。(「天界の秘儀」から)”

 

(「メディテーション 1」アルカナ出版より)

 

 

*低級な霊ほど「自分は○○大神である」とか言って、大神様の名を語るものです。皇道大本の歴史においても、艮の金神・国祖国常立尊は『変成男子(出口ナオ開祖)と変成女子(出口王仁三郎聖師)の二人にしか懸からない』と大神様ご自身が言われているのですが、自称・国常立尊の神懸かりは相変わらず当時も今も存在します。これは大本の人間であればよく知っている話ですが、明治25年の出口ナオ開祖の神懸かりの約一カ月前、ナオの長女米(よね)が発狂するという事件が起こりました。後でわかったのですが、これは国祖国常立尊が御再現になられることを前知した龍宮の乙姫、乙米姫命(おとよねひめのみこと)が国祖のお手伝いをするために懸かってきたことが原因でした。つまり、乙米姫の御神威があまりにも凄まじかったために、米の精神が耐えられなかったのでした。最終的に乙米姫命は末娘のすみ子(後の出口聖師の妻、二代苑主)の肉体に鎮まるのですが、乙米姫命ですら、これほどの霊力であり、その霊を受けられた二代苑主であっても国祖大神の神懸かりは不可能であったわけですので(声は聞いておられましたが)、開祖と聖師以外に艮の金神様の神懸かりに耐えられる人間など、いるはずがないのです。

 

 

・審神(サニワ)の条件  〔長沢雄楯師〕 

  

記者 先生は神霊の感応やサニワ等、どうしてお習いになったのですか。

 

長澤 サニワはサニワでかうした事を書いた本があります。そうした本を充分に読んで心を清め、清潔な濁りのないことに心がけ、更に天津神国津神を信仰しなければいけません。

 それでやはり一番大切なのは琴師です。すべて神懸かりは悪い心を持ってやると邪神に感応し、清潔な心をもってやると正神に感応しますが、琴師の心が一番大切です。この修業はどうしたらよいかとのお尋ねでございますね?

 それには先ず神様の本をよく読むことです。神様の書物ばかりでなく天文学とか或いは地質学とか、鉱物学とか物理とか内外歴史等諸般の学術の本を務めて広く見て腹に入れて置かねばなりません。何故かと申しますと僅かな軍事の事をお伺いするにも大略の事を心得て置かぬと御示しの事を正確に受け入れかねるのであります。鉱物学の事をお尋ねする時には、やはり鉱物に関しての知識がないと、お伺いを立てるに支障を来します。これらが先ずサニワに一番必要な条件だと思います。

 

(『昭和』昭和8年7月号 『神霊座談会』より)

 

・エドガー・ケイシー・リーディング

 

 “心霊力は多くの側面、多くの性質をもって、物質界に表されます。身の程をわきまえず、地上の進化の一部に加わろうとするものたちが、ベールの向こうから働きかけています。それが混乱と争いをおこすのです。(11352)”

 

 (林陽編訳「エドガー・ケイシー名言集 知恵の宝庫」(中央アート出版社)より)

 

*高次元の霊は、高い霊的進化を遂げていると同時に、途轍もない量の知識を持っており、何かを説かれるときには必ず聖典等その根拠を示されます。反対に低級な霊は何も知りませんし、何の根拠も示さずにわけの分からないことをひたすら捏造し、それを大袈裟に、さも重大な秘法であるかのように告げてきます。

 

*1960年代のスペイン・ガラバンダルでの聖母マリアの御出現のとき、御出現を受けた4人の少女は『全世界に向けて発表するように』と聖母から託されたメッセージの公開を教会当局によって禁じられてしまいました。どうしてよいか分からなくなった少女達は、次の御出現のときに聖母に伺うと、聖母の答は「教会に従いなさい」でした(後日、発表は許可されました)。教会内には数多くの腐敗堕落が存在し、聖母もそのことに言及されておられますが、聖母がおっしゃるのは「教会のために、使命を裏切った司祭や司教の回心のために祈りなさい」であって、断じて「教会を無視しなさい」ではありません。私は仏教の僧団についても同じだと思うのですが、高次の神霊は主神の摂理の元に出現した宗教、使徒継承の教会について、決してそれらの組織を否定、ないがしろにされるようなことはされません。様々な儀式や礼拝の言葉、真言についても、何故そのように定められたのか必ず何らかの根拠があるのであって、それらは尊重されねばなりません。最近は、霊能者を自称する者達、主神の宗教に属さない者達が、わけの分からない妙な呪文を万能の真言だとか、あるいは奇怪な神社参拝の仕方なんかを勝手に説いているようですが、よくよく注意すべきだと思います。

 

 

 

 

 

 

 


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