「言霊学」について | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・「言霊学」について

 

 “「言霊」の思想は日本に神代より伝わり、平安朝までは実際に活用されていたといわれ、その後中絶していたものを、江戸時代の中期に到って復古思想の波に乗り、国学の発達にともなって「言霊学」として、学問的に研究しはじめられた。荷田春満が「稲荷古伝」を基本として説いたのがはじまりであるともいわれているが、その後国学者中村孝道が、天保五年「言霊或問」ついで「眞寸鏡」等を著し、言霊学中興の祖と称された。中村孝道は通称主計、産靈舎と号し、丹州八木の人(一説には周防の人ともいわれる)で幕府に仕え、弟子三千を有していたが、言霊の秘奥を伝えるに足る弟子なく、妹うの子刀自に伝えて没した。うの子刀自こそ誰あろう聖師の祖母である。聖師は揺籃時代すでにその薫陶を受け、幼少より天才的ひらめきを示されていた。天保四年丹州亀山(現在の亀岡)で言霊学の名著「水穂伝」を著した杉浦志道という学者があったが、聖師は中村孝道と同一人物であるとの説を立てられた。ついで天保七年には高橋残夢の「霊の宿」、安政四年には鹿持雅澄の「言霊徳用」、明治元年には富樫廣陰の「言霊幽顕論」等、相次いで著述が発表され、最後に大石凝眞素美の「大日本言霊学」によって一応学問的には大成されたかの観がある。明治十年には掘集成の「言霊社」が結成された。大石凝眞素美は天保三年、伊賀の上野に生まれ、祖父幸智が中村孝道に師事していた。父につき医学を学び国学を修め、諸国に神人を尋ねて行脚し、ついに美濃の国宮代村の山伏、山本秀道の神通力に感服して師事し、修験道を祖述した。逸話や奇行が多く、晩年は水野万年方に寄寓して大正二年八十二才で没している。その著は「大日本言霊学」の外「彌勒出現成就経」、「天地生え貫きの極典」、「眞訓古事記」等多数あり、一部は「神霊界」に連載されている。いわゆる言霊学者は以上の通りであるが、言霊の運用を眞に体得実修した者は皆無といっても過言ではなく、聖師は過去においては弘法大師一人あるのみと申されている。聖師の古事記、日本書紀、祝詞等の言霊解は、当時相ついで「神霊界」等に発表されたが、その内容において前記諸大家の説の遠く及ぶことの出来ない高いものであることは勿論である。また聖師は一言のもとに風雨雷霆を叱咤されたような事例はあまりにも多く、とうてい弘法などの比でなく、前古未曽有の大神人たるの証しを示すものである。”

 

  (「神の國」昭和28年6月号 大石栄『大本神業の歴史的発展について(二)』より)

 

 

・終戦のころのお話

 

 森良仁「言霊の活用は長い年月隠滅していたのを、聖師様が復活あそばされたのですが、いまのうちに何人かにお伝授(つたえ)いただきませんと、聖師さま百年の後、再び隠滅するのではないかと心配になります」

 

 聖師 「つたえる人物(もの)がおらん」

 

 森  「普通の者では無理でしょうが、せめて日出麿先生に……」

 

 聖師 「いらぬ世話をするな。天地には源(もと)があるのだから、必要な時には神様が必要な神人(ひと)を出してお使いになるのだ」

 

と仰せられました。

 

     (「おほもと」昭和53年6月号 児島案山子『初歩言霊学覚え書』より)

*出口聖師によれば、『亀岡(亀山)と穴太(高熊山)と大井の三角地点の中が、本当の言霊を発し得るので、音頭を正しく歌えるところである。一辺4キロ(三六丁)正三角の中が言霊の国である』 ということなのですが、いつかまたこの地域から、真の言霊を駆使できる神人が出てくるのでしょうか。