一字一句すべてが金玉の文字 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 

・「霊界物語」の一字一句すべてが金玉(きんぎょく)の文字

 

 “瑞月(=王仁三郎)がここに神代の事蹟の一分を口述編纂したるところの本書に対し、世の驕慢なる学者の眼には時代錯誤の世迷言を陳列したものと見えるであらう。天は蒼々として永久に高くして広く、地は漠々として際限なきに似たり、虚空の外に心身をおいて神代の史実と神の意思とを顕彰し、一瞬に転廻して宇宙の真相を示さむと、神示のまにまにこの物語を著はしたるその苦心、これを酌むものは大本信徒をはじめとし、世上はたして幾人あるであらうか。ある幹部役員たりし某々氏はこの物語を評して、……霊界物語はたとへば砂利の山のやうなもので、吾々はその沢山の砂利の中から自分のこれと認めた僅かに包める砂金を採取するの考へをもつてこれに対するのである……と話してゐられた。瑞月はこの意外にして不遜なる某氏の談を聞いて、いまだ神の権威の大本幹部たりし識者に容れられず、了解されてゐないことに嗟嘆せざるを得なかつた。大神の神格を精霊に充たし予言者に来たらしめて、万民救治のために明示されたる神書に対し、あまりに無理解にして且つ学者の鼻の高きには感心したのである。軽侮嘲笑の的となるであらうとは予期してはゐたものの、大本幹部の口から斯様な言が出るとは一寸面喰はざるを得なかつた。

 しかしながら天下一人の具眼者が現はれて、一度心を潜め真面目に臨まむか、必ずや一節ごとに深遠微妙の真理を蔵し、五味の調度よろしき弥勒胎蔵の神意と、神智や苦集滅道の本義を発見し、肯定し、帰依するに至るであらう。本物語の目的は霊界現界の消息を明らかにし、諸人が死後の覚悟を定め、永久に天国浄土の悦楽に入るべく、仁慈の神の御賜として人間一般に与へられたものである。現界に用ゐては大は治国平天下の道より、小は吾人が修身斉家の基本となるべき神書である。

 昨大正十一年の秋瑞月は筆録者をはじめ、天声社における編輯者は、この物語に対してどこまでの信仰を有するかを試みむため、神示に従つて……万々一本書の中において教典として採用すべき金玉の文字あらば抜萃してこれを別刷となし宣伝用にあて、熱誠なる宣伝使や信者に頒つべし……と言つた。そしてこれらの人々の感想や著眼点の奈辺にあるかを探らせられた。しかるに驚くべし、全巻みな神より見れば金玉の文字、人間の作物でないものを、真面目に取捨選択し各これを数ケ月熱心調査の結果として余に示された。直ちに神明に伺ひみしところ、神は大いに笑はせ玉ひ、……人間の盲目と無鉄砲には呆然たり……とのお言葉であつた。瑞月もこの神示には大いに面喰つたのである。ゆゑに定めて抜萃に尽力されし人々は驚かるることでありませう。大本神諭に示されたるごとく、やはり霊魂の因縁相応より口述者といへども分らないものと歎息したのである。これを思へば人間は自我心を出さず、何事も聖慮に素直に柔順に仕ふるより外に途はないと思ふ。この神書をもつて普通の稗史小説または単なる滑稽物語および心学道話の一分と見てゐるくらゐの程度では、到底この書の眼目点をつかむ事は出来ない。アヽ日暮れて途いよいよ遠しの感に打たれざるを得ない次第であります。

 

  かむながら幸はひまして世の人に さとらせ玉へこれの神書(みふみ)を

 

       (「霊界物語 第五十四巻 真善美愛 巳の巻」『序文』より)

 

・出口聖師がお休みのとき、お側で拝読していたときのお話

 

 “…… 拝読を続けておりますと、どうしてもくたびれてきて、所々まちがって拝読してしまいます。すると、『そこは、……であります まる(。)』とか『そこは、……して てん(、)』と、句読点まで間違いを指摘され正されました。当然のことですが、すべてご存知なのです。本を読んでいるのは私の方なのですが、休んでおられる聖師さまに間違いを句読点まで訂正されながら拝読させていただきました。” 

 

(「おほもと」平成7年8月号 中井和子「聖師さまが『あんたなぁー霊界物語を読んどるやろ』と」より)

 

 

・聖書の一字一句に全部の聖書が含まれている

 

 “ミサにあずかっているとき、聖書をくまなく読もうという考えが頭から離れませんでした。それが正当な義務で、多分奉献のときに主にそれを捧げようという意図があったのだと思います。私に先がけて主は仰せになりました。

 「聖書の一つ一つの言葉は全部の聖書を含んでいる。」

 その言葉は、深く私の中におりてきたので、私は感銘を受けました。感銘を受けたのですが、わけもわからずに感銘を受けたのです。

 最初の、「一つ一つ」という言葉、つまり聖書の「一つ一つ」という言葉に私は大へん感動したのです。でも、どのように?私は理解できませんでした。わからなければわからないほど、私の中でその「一つ一つ」が気になりはじめ、大変短い言葉にまでこだわり、しまいには私の理性の前では一つの小さな「そして」という接続詞までも考え込むようになってしまっていたのです。

 ただの一つの「そして」という言葉が、救いのすべてのメッセージを含んでおり、イエズスが話された全部のたとえ話に全部の意味があるのだと自分に言い聞かせたとき、その言葉は私の頭に焼き付いてしまったのです。

 私の能力では理解できるものではありませんでした。考えに考え抜いたのですが、私の理性は全くの闇でした。……(中略)

 

 ミサ中、正確に言えば奉献のときの聖体奉挙を仰ごうと目を上げたとき、ホスティアから霊的光のようなものが私の心の中に差し込んできたのです。何の教えもなく一瞬のうちに、すべてが明らかとなりました。主よ、あなたは何と偉大な方なのでしょう。今なら私もよくわかります。ありがとう、主よ……。 

 何が起こったのでしょうか。はっきりと、一つ一つの言葉が真理だというのが見えたのです。ご聖体は私の頭を悩ませていた、どうにも説明のできないすばらしい言葉の理解の鍵となりました。ご聖体は、イエズスが私たちにご自分を与える手段であり、み言葉は、神が人に恩恵を流す手段なのです。

 こうしてみると、聖書の一つ一つの言葉は別個に切り離して解釈するものではなく、その背景には創造主と被造物の一致を実現する目的があるということなのです。神からくるご聖体とみ言葉は、無限の主の善に開こうとする人には、主のご自分を与える道だということに私は気づいたのです。

 聖書の一つの言葉、一つの句読点、一つの区切りに、何度私は深く考えるように誘いを受けた印象を持ったことでしょう。

 聖書に書かれている接続詞の「そして」という小さな言葉の中に、主の譬えの全部の意味があるということを考えて、私は人間的な答えを探し続けていました。そして主は別な方法で解答を与えられました。主にとってはあきらかに、私たちの知識が人間的に一杯になることには関心がないのです。主にとってたいせつなことは一致なのです。ご聖体と生きたキリストの生活からくる体験による主とのふれあいによる知識なのです。これこそがいのちを与える知識なのです。つまり生きること、経験すること……これはただの理解ではないのです。心で理解することなのです。

 この「理解すること」は、主に私たちの心を開き、信頼深く私たちを主に委ね、注意深く主の言葉を聞くときにはじめていただけるのです。”

 

 (サンドラ・ニョッキ「神さまの声が聞こえる おん父のすばらしいご計画」燐葉出版社より)