弥助:1579年に日本に来日し、最初の黒人サムライとなった最初のアフリカ人 | あやちゃんのブログ

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弥助:1579年に日本に来日し、最初の黒人サムライとなった最初のアフリカ人

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1579年に日本に来日し、最初の黒人サムライとなった最初のアフリカ人、弥助の像。

 

天正9年3月11日(1581年4月14日)付でルイス・フロイスがイエズス会本部に送った年報や、同時期のロレンソ・メシヤの書簡によれば、京都で黒人がいることが評判になり、見物人が殺到して喧嘩、投石が起き、重傷者が出るほどだった。初めて黒人を見た信長は、肌に墨を塗っているのではないかとなかなか信用せず、着物を脱がせて体を洗わせたところ、彼の肌は白くなるどころかより一層黒く光ったという。

本当に彼の肌が黒いことに納得した信長はこの黒人に大いに関心を示し、ヴァリニャーノに交渉して譲ってもらい、「弥助」と名付けて正式な武士の身分に取り立て、身近に置くことにしたと、イエズス会日本年報にあり、信長は弥助を気に入って、ゆくゆくは殿(城主)にしようとしていたという。また、金子拓によると、『信長公記』の筆者である太田牛一末裔の加賀大田家に伝わった自筆本の写しと推測される写本(尊経閣文庫所蔵)には、この黒人・弥助が私宅と腰刀を与えられ、時には道具持ちをしていたという記述があるという。

『家忠日記』の天正10年4月19日(1582年5月11日)付けの記述には「上様[注釈 4]御ふち候、大うす(デウス)進上申候、くろ男御つれ候、身ハすみノコトク、タケハ六尺二分、名ハ弥助ト云(信長様が、扶持*を与えたという、宣教師から進呈されたという、黒人を連れておられた。身は墨のようで、身長は約1.82メートル、名は弥助と云うそうだ)」とその容貌が記述されている。これは弥助も従軍していた甲州征伐からの帰還途上に、信長が徳川領を通った時に家康の家臣である松平家忠が目撃したものであるが、日記の記述に弥助は下人や年季奉公人のような隷民ではなく扶持もちの士分であったとはっきり書かれている。

 

*主君から家臣に給与した俸祿の米。中世、土地の給与に代わって米を給与すること


本能寺の変
天正10年6月2日(1582年6月21日)の本能寺の変の際には弥助も本能寺に宿泊しており、明智光秀の襲撃に遭遇すると、二条新御所に行って異変を知らせ、信長の後継者の織田信忠を守るため明智軍と戦った末に投降して捕縛された。『イエズス会日本年報』によると、「ビジタドール(巡察師)が信長に贈った黒奴が、信長の死後世子の邸に赴き、相当長い間戦ってゐたところ、明智の家臣が彼に近づいて、恐るることなくその刀を差出せと言ったのでこれを渡した」という。

家臣に、弥助をどう処分するかを聞かれた光秀は、「黒奴は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず」として処刑させずに、「インドのパードレ[注釈 5]の聖堂に置け」と言った。このため弥助は南蛮寺に送られて命拾いした。この光秀の発言については、黒人の弥助に対する差別意識の表れだったとする説と、弥助に情けをかけて命を助けるための方便だったとする説があるが、真相は不明である。

その後
南蛮寺に預けられて以降、弥助の消息については、史料に記されておらず、全く分かっていない。

その後の他地域の史料の中には、黒人が登場するものがいくつかあり、弥助以外にもたくさんの黒人が来日していた。フロイスの『日本史』の沖田畷の戦いには、有馬方に大砲を扱える黒人がいるとの記述がある。慶長10年(1605年)頃に描かれた『相撲遊楽図屏風』には、肌の黒い男と髷を結った力士が相撲を取る様子が描かれている。

信長のデスマスク
愛知県瀬戸市定光寺町の西山自然歴史博物館には、信長と伝わるデスマスクが展示されている(信長であるという確証はない)。織田秀信の庶子を称したという織田秀朝(西山清明)の末孫を主張する西山館長によれば、弥助という黒人の家臣が持ち出した信長の首から作られたという。 
Wikipedia

 

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