ハイハイハイ
TACO
…
はい、すみません。久しぶりすぎました。
いやね、今日はちょっとね、このつまらないブログを何気に見ているそこのあなたにね、ちょっと自慢してやろうと思ってさ、登場したわけよ。
特に今ね、
筑波に最近通っているはずのそこのノッポな君。
渋谷あたりに居るはずのヤブなお前さん。
そして、舞鶴辺りの新婚ホヤホヤの湯気が出ているシアワセな大将。
その辺り狙い撃ちでね。
実は今日、アクロス福岡でちょいと歌ってきました。
いや、本番ぢゃなくてね、練習よ。
いや、練習場でぢゃなくてね、ステージでよ。
実はね、タリススコーラズっていう超激ウマ合唱団(知っとろ?)の指揮者のピーター・フィリップさんって先生の公開レッスンを受けてきたのだ。
ハイハイハイ、羨ましいね。そうそう。
そうなんだよ。
実はどういうわけか、福岡合唱界の重鎮、体はちっちゃいけど1トンぐらい重みのある宮内大先輩組長からお声がかかってね、超末席のかなり場違い的立場で参加させて頂いたわけよ。
曲はね、バードの4声のミサのアニュスデイと、パレストリーナのSicut Cervusという、まあ、その道では有名な名曲だったんだけど、まずこの曲がどちらもイイね!
どちらもいずれSolfa!のレパに加えよう。
それを、アクロスのステージを貸切で歌うんだから、もうそれだけでも相当興奮するわけだよ。
で、肝心のフィリップさんの指導だけど、これがね、とても良かった。
まず、指示がね、これがシンプルでさ、とても分かりやすい。
バランスと音程とリズム、そして曲の構成、或いは音の構成からくるフレーズの歌い方、それもとてもシンプル。
音が高くなったら盛り上げて大きめにとか、言葉のアクセントを大事にしてとか、フーガの時は後発のパートほど盛り上げてとか。ここのリズムは時計の様に精密に揃えてとか。
なんて、もう、大体そんな感じよ。
でも、誰でも言えそうなこんなシンプルなことを言えるのが偉いと思ったね。
ルネサンスものであろうろ、なんであろうと、指揮者として言うべきことって、そう違いは無いんぢゃないかなと思ったね。
それに指揮もすごくシンプルでね、よくルネサンスものでは横の動きを強調した指揮をしたりするけど、そんなんじゃなくて、決して大きくは振らないんだけど、打点が必ず分かるような指揮をするわけよ。
これはちょっと目からウロコ状態だったね。
で、当然の如く、とても良い演奏になるわけよ。
でもね、よく考えると、やっぱりそれだけじゃないんだよな。
オーラがさ、違うんだよ。
勿論、歌う側も本場の指揮者を前にしているから、普段では絶対出ないような凄い集中力で歌っているから、音が見る見る良くなるのは当然だと思うけど、それだけじゃないんだな。
全然特別なことは言わないし、して無いんだけど、何故かとても歌いやすくて、出ない声が出てしまう。
気づいたら、なるほどこの曲は、あるいはこのフレーズはこういうことなのかと分かってしまう。
こういう感覚は本当に久しぶりかもしれない。
話しがちょっとそれるけど…
最近、指揮に関してちょっと考えていた事があって、それがたまたま先週の土曜日のあかでみの練習の時に、
ああ、やっぱりそうだよ、と思ったことがあった。
指揮者の仕事って、色々あると思うけど、現場で団員を前にしてやることって、音程やリズムを治したりして、皆がより気持ちよく歌えて、なおかつそれが美しかったり、力強かったりと音楽的に整うようにしたり、その歌のイメージやなんかを伝えたりすることが多いね。
勿論、そういう作業は絶対大事なんだけど、それで終っちゃ全然ダメなんだよな。
指揮者の本当の仕事は、その先の、何かわからない、言葉では説明することの出来ないことを伝えるのが本当の仕事ではなかろうかと、最近思うわけよ。
つまり、某学生指揮者が、あるロシアの曲の音程やリズムや曲想も整え、その曲の背景や情景の説明もちゃんとして、それを実現すべく指揮をし、団員は言われたことに注意して、言われた情景を頭の中で思い浮かべながら良い音程やリズムで歌ったとしても、それでは、多分全然ダメなのだ。
実際、聞いていて何の感動も無い。
それ以上に、或いは例えば時には音程やリズムの正確さなんかよりも優先して、指揮者が、例えばロシアに馳せている茫々たる想いとか、その曲やフレーズとかから感じる、わけのわからないインスピレーションみたいなもの、或いはその曲が如何に自分が好きかってことなんかを伝えないと、本当に指揮をしたとは言えないのではないかと思うわけだ。
そう、どうも最近の指揮者ってのは(つまりそれは自分も含めてだが)、どうもトレーナーの範疇でしか仕事をしていないのではないかという気がしてならない。
何でも説明的というかね。
勿論、何度も言うけど、それは大切なことなんだけど、でもそれが実は楽なことであるのも間違いない。
そうではなくて、それ以上に、指揮者は、曰く言い難い、説明の出来ない何かを発しないといけない、いや、発するのが本当の指揮者の仕事ではないか、と最近強く思っているわけですよ。
音楽には、音楽でしか伝わらないものが絶対にあるね。言葉、或いは知識は、あくまでそれのほんの僅かの補足でしかない。
今日のフィリップ氏の指揮を見ていて、オーラが出ていると書いたけど、確かに彼が指揮をすると、なにか分からない、上手く説明が出来ないけど、でも何かわかった様な気がするとか、全然違う次元の美しさを感じてしまったりとか、要は、わけわからんけど、なんか感動するわけよ。
ああ、こういう指揮をしないといけないなと思ったわけです。
ちょっと最近、こういうことを忘れていたかもしれない。
物事ってのは、説明の付かないものの方が本当は遥かに多いはずなのに、それが分かったような気になっているんだろうな。
多分それは音楽に限らず、いろんな面でそうなんだろうな。
ちょっと感覚を取り戻すと言うか、転換しないといけないような気がする。