旧統一教会に解散命令が出た。
高額献金を巡るトラブルが続出し、文科省が請求していた解散命令が通ったことになる。
宗教活動は自由であり、誰が何を信じようと勝手であり、信じたものに全財産をはたこうが、他人にどうこう言われることではない、と私は思う。
だが、その結果、自分以外の人を傷つけたり被害を与えたりするような場合、どうなのか。
正直、私の中では確固たる結論が出ない。
ただ……
オウム真理教が世の中を騒がせていたとき、職場でもその話題が花盛りだった。
先輩スタッフが「オウム真理教って聞いたとき、信者はオウム(←動物の)を崇拝する宗教かと思った」と真顔で言っていた。
その続きで、「例えば、キャベツの芯に神が宿るという宗教だってアリだよな」と言いだしたのである。
キャベツ教。
信者は、キャベツに手を合わせ祈る。
信者じゃない者から見れば、全くばかばかしいい光景に見えるが、誰が何を信じようと自由なのだ。
だがしかし、だからといって、キャベツが好物な人に「お前は神を冒涜している!キャベツは食べてはならない!」と言ってキャベツを取り上げたらどうか。
キャベツ教の信者じゃない人は、キャベツを自由に食べる権利があり、それを他人にどうこう言われる事ではない。
つまり、「何を信じても自由」ということは、一方で「それを人に押しつけてはならない」こととセットであると思うのだ。
ましてや、「キャベツを食べたら、家族に不幸が訪れる!」などと不安をあおって自身の信仰を押しつけるのはやっぱり間違っている。
……先輩とキャベツ教について話したとき、私は妙に納得した。
解散命令に対し、教会側からは信教の自由を脅かすとの反論が出るだろうが、考えてみれば、献金した信者に「返金を求めない」という念書に署名をさせるのは矛盾している。
だって、信者が途中で「気が変わる」とか「別の宗教を信じるようになる」こともあり得るし、そうなったところで当然許されるでしょう。
だって信教は自由なんだから。
献金すればするほど功徳があるなら、もうその宗教からの功徳は必要なくなったわけで、だったら心変わりした信者には、今までの分、差し引いてお金を返さなきゃ。
「返金を求めない」ということは、すなわち「他の宗教に心変わりするな」ということであり、すなわち信教は自由でなくなるわけだから。
あれこれ言う 無宗教人 自由人
鞠子