「こんなときに限って」は、腰だけで終わらなかった。
こんな暮れの押し迫ったときに、左下の奥歯が取れた。
この歯、相対する上の歯も併せて、2か月超前の先回の定期検診のときにも既に違和感があったのである。その旨、医師に訴えたが、虫歯でも歯周病でもなく、取りあえず様子見となっていた。
まさか、取れるとは思わなかった。取れてみて初めて、この歯はかぶせ物がしてあるわけではなく、自歯の根っこがほとんどないため全くの作り物が刺さっている状態だったのだということに気づいた。
違和感は、作り物の歯茎内部分が前後左右に動いていたからではないかと合点がいった。
やむを得ず、急遽、歯科予約。
今日、最後の午後5時40分にムリムリ入れてもらった。
横入りにつき、待合室は当然、混んでいる。
それも、なぜか御老人ばかり。
まずは、私の右隣に座っていた年配の女性が診察室に入っていった。
年配女性の声、よく通る。先生との会話が耳に入ってくる。
「すんません。洗ったか洗ってないか、ははは」
「そうなんですか。すんません。ごめんなさいね。ははは」
「ははは、下だけですか。すんません。ははは」
何か会話がおかしい。
先生の声はよく聞き取れないが、入れ歯のことをいろいろ問うているらしい。
だが、この女性、あやまりっぱなしなのだ。そして、必ず笑う。結局、先生の問いにまともに答えていない。
聞きようによっては、先生が完全に「バカにされている」ように思える。
…聞いているうちに、こちらまで腹ただしくなってきた。
診察が終わり、スタッフが待合室にいた男性を呼びに来た。
息子さんらしい。
この人に向かって、先生が言った言葉でハッとした。
「入れ歯の洗浄は○○で、就寝時の装着は××で、というふうに施設の方にお願いしてください」
…そうか。この女性、施設にいるのか。おそらく、多少、認知症なんだ。
一気に、哀しくなった。
腹を立てたことを、申し訳なく思った。
と同時に、施設にそういう話をしなければならない息子さんの気の重さを思った。
…童女のようなニコニコ顔で出てきた女性を見て、切なさが倍加した。
待合室にいた別の年配男性も見ていてつらくなった。
耳がほとんど聞こえないらしく、スタッフが会計窓口に呼んでも全然動こうとしない。
なんとか会計窓口まで行ったものの、スタッフが大声で話しても、よく分からないようだった。
会計後、ダウンを着る際、右手を袖に通し、左手を背中に回して袖を懸命に探っているのだが、見つかるわけがなかった。
右手が通した袖は、左手の袖だから。
何度も着直したが、その都度、右手を左手が通すべき袖に入れるため、一向にダウンを着ることができない。
声をかけて言ってあげようかと思ったが、さっきの窓口での様子からすると、相当大声を出さなければいけない。かといって、着せてあげるのも気が引ける。
自分にも必ず来る姿。
とれた奥歯以上に、切なさが身に沁みた。
誰しもが 通る道でも 哀しくて
鞠子