王貞治さん曰く「努力は必ず報われる。もし報われない努力があるのならば、それはまだ努力と呼べない」
NHKの朝ドラ『舞いあがれ!』で、航空大学校の教官曰く「努力してもダメな者はいて、そういう者を落とすのが私の役目だ」
…ということで、「努力」をキーワードに、連日、ハッとする思いが二転三転しているのだが、今日、また覆って、とうとう迷走し始めた。
覆った原因は、サッカー日本代表、森保一監督のこの言葉、
「努力が色あせることはない。この悔しさを次の成長につなげてほしい」
ここまでくると、そもそも「努力とはなんぞや」と考えざるを得ない。
報われるか報われないかは、努力の「結果」だ。
だが「努力」とは、本来「自分が納得できるところまでやっているか」であり「結果で判断するものではない」のではないか。
たとえ「ダメ」という結果が出たとしても、努力したことにはかわりがない。
森監督が言う「色あせない」は、努力の「過程」を指しているが、それが色あせない、ということは「自分が納得できるところまでやったから」だ。
つまり森監督の言葉は「自分が納得できるところまでやった」という前提で語られている。
となると、次の問題として、結果が思わしくなかったとき、「自分は納得できるところまでやった」と断言できるかどうか。
インタビューなんかで「悔いはありません」と言う選手が少なからずいるが、それは本心か。
実は違うと思う。
結果が出せなければ、やっぱり後悔する。あのとき、もっとやっておけばよかった、もっとやれたはずだった、と思う。だから、王さんの言うように「それはまだ努力と呼べない」のではないか。
結局、努力の過程もその結果も「自分自身の中にある」―― とりあえず、ムリムリ自分自身に落とし込んだ今日の結論はこのあたり。
来し方に 努力の欠片 見当たらず
鞠子