少し前、年配の男性が補聴器について書いた文章を、新聞に投稿していた。
内容は全く覚えていないのだが、この部分だけは強烈に印象に残った。
「補聴器にメガネにマスク。とてもうっとうしい」
わかる。すごくよくわかる。マスク生活になってから、私もメガネを敬遠するようになった。今や近眼と老眼とのせめぎ合い。通常の仕事は裸眼の方がうんと効率的なのだが、となると、車の運転や遠くのスケジュール黒板を見るときには、どうしてもメガネをかけなければならず、顔上にマスクとメガネがオンされる。これがウザくてたまらない。
かといって、コンタクトレンズを装着していくと、顔上はマスクだけですむのだが、今なら年末調整の書類などとても見えたものじゃなく、この仕事の前にはレンズを外さなければならない。それもまた、ウザい。
顔上だけではない。
からだにつけるもの、たとえばアクセサリーの類、もっといえば衣服、これら、年々ストレス要因になるばかり。
若い頃は、髪にも耳にも首にも腕にも指にもジャラジャラつけまくっていた。
だが、こんなアクセサリーはつけなくても問題ない。なにより冬場、身につける衣服が増えることがしんどいのが致命的。着れば着るほど肩が凝り、足がもつれ、動きが鈍くなる。
ところで、今日、ある方とある話をしたあと、「あれ? これって、以前にも話したんじゃなかったっけ」と不安になった。
そういえば、話している最中に、「この話、したっけ?」と聞いてから話し始めることが増えてきた気がする。同じ話を二度したら、相手もさぞ迷惑だろうなと思うから。
だけど、さらにこのごろ、そんな気遣いすらもしないようになってきた。
現に今日など、不安になったのは一瞬だけ。本当に以前にした話であり、相手に悪いことをしたなと思っても、すぐ、ま、いいか、と思い、最悪、これが原因で相手が遠ざかっても、ま、仕方ないか、と思ってしまう。
同じ話を何度もしているのではないかと不安に思っているうちは、まだ若いのだ。
それで相手に嫌な思いをさせているのではないかと心配しているうちは、やっぱりまだ若い。
ま、そのよなこと、どうでもいいか、と思う今は、明らかに
「老」
からだにできるだけいろんなものをつけたくないのも、
「老」
……「老」の形、思いのほか、いろいろある。
脳内も 空洞部分が 増えて「老」
鞠子