今さらながら、樋口一葉の『たけくらべ』を読んだ。
中公文庫の『小説集:吉原の面影』に入っていたのである。
この文庫の中には、『たけくらべ』の他に、『里の今昔』(永井荷風)・『今戸心中』(広津柳浪)・『註文帳』(泉鏡花)が入っている。買ったのは、好きな永井荷風と読んだことのない広津柳浪の作品が入っていたからで、『たけくらべ』は眼中になかった。
読み始めた当初、実は「飛ばしてしまおうか」と思った。
文語体なのである。非常に読みにくい。ただ、妙にリズムがいい。それにつられて文を追っているうち、意味は今一つよくわからないけど、飛ばしたら損をするような気がしてきた。そうこうするうち、やっぱり意味は今一つよくわからないけど、なぜか読まずにいられなくなってしまったのである。
そうして最後まで読んだ結果は、あまりにも衝撃的&感動的だった。
その理由が、自分自身、今もってよくわからない。内容が十分理解できないのに、胸を打たれる理由が、言葉にできない。
遊里で生まれ育った美登利と寺の跡取り息子・信如。
14歳と15歳。
淡い初恋、そして悲恋…… などという単純な話ではない。そう十分想像できるのだが、「悲」だとは少しも書かれていないのである。
美登利や信如だけでなく、遊里周辺で生きる子どもたちが描かれているのだが、「そんな気の毒な場所で」という捉え方は読者の勝手な先入観であり、「そんな気の毒な場所にはいない」子どもたちと、何の変わりもない。泣いたり笑ったりケンカしたりしながら、日々を生き生きと生きている。
だが、彼らのすぐ目の前に、子どもと大人を隔てる線がくっきりと引かれている。それは、美登利の初潮という体の変化であり、信如が僧林に入るという避けられない節目。この線を境に、美登利は遊女の道へ、信如は僧の道へと、進む方向が鮮明に見えてしまう。
もう二度と、子どものころの二人には戻れない。
…悲しい。いや、しつこいようだけど、「悲しい」とは決して書かれていないのである。だからこそ、悲しいのだ。
美登利が初潮を迎えたことも、ストレートには書かれていない。彼女の心持ちが書かれているだけ。当然、信如には、美登利のその心持ちは理解できない。大きな惑いを抱えた彼女を途方に暮れながら見つめるだけ。
涙があふれてきた。
でもやっぱり理由ははっきりとはわからない。
もう一度言うけど、決して「悲しい話」という書き方はなされていないのである。
そして、意味はやっぱり理解しきれないのである。
それなのに、とても悲しい。
なぜ泣けるんだろう……
言の葉の力は霊の如也
鞠子