世の中に片付くなんてものは殆んどありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

夏目漱石『道草』で、主人公・健三(←ほぼ漱石自身)が最後に妻にこう言った。
その通りだと、今は痛いほどわかる。
高校か大学時代、『道草』は読んだが、この健三の言葉など、全くスルーだった。

以前、仕事で調停の仕事をしている人と話したことがある。
主に、労働者VS経営者の調停を行う。裁判になる前に、なんとか和解させようと調停するのである。

この方が言うには、会社側に落ち度がなくても100対0の結論は勧めず、「いくばくかはお金を出して和解することを提案する」。
すると、「こちらが悪くないのになぜ(`Δ´)」と激する経営者も多いのだが、それでもお金を出すよう説得するのだそうだ。
なぜなら、100対0の結論を出せば、労働者は会社や経営者への恨みつらみを何倍にも話を盛って拡散させるから。結果、会社が受ける社会的ダメージは計り知れない。だから、「見舞金と割りきって払う」よう勧めるのだそうだ。
もちろん、裁判なんかになれば、双方とも、物理的・金銭的・精神的に相当疲弊する。

正しくてもお金を払わなければ収まらない。
健三(漱石)の言う通り、決して片付かないのである。特に心中は。

まさしくやっかい。
このどうにもならないやっかいさ、『道草』を読むと、これでもか、これでもかというほど堪能デキマス。