ナミダのクッキングNo.2174 | 鞠子のブログ『ナミダのクッキング』

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今日、ちょっぴり悲しかったこと…

次回文学講座の課題本のうちの1冊、三島由紀夫『愛の渇き』をやっと読み終えた。

三島の作品は、数えるほどしか読んでいない。
それも短編が中心で、「三島作品をよくわかっている」とは間違っても言えない。
だから、『愛の渇き』に限って言うと……

アタマにきた。

精緻な言葉ばかりですごい!とは思うのだが、正直「ウザい」のである。
ここまで書いてくれるな、余計なお世話だっ、ほっといてくれ!と思ってしまった。
結局、読者を信頼していないんだ、三島という人は。
あるいは、読者を思いっきり挑発してるのかしらん。

主人公・悦子。
その時々の心情が深く鋭く整然と表現されるが、実際の「生きたオンナ」は、自分の心を「こんなにち密に語れやしない」、と思うのだ。
平凡な日常においても、想定外の事件に遭遇したときでも、こんなふうに整理して吐露できる人は、凡人にはいない。
少なくとも私は、出会ったことがない。
むしろ、感情むき出しで支離滅裂…の方が、より「生きたオンナ」っぽい。(←差別的な考え方かもしれないが)
だから、悦子に「リアル」を感じないのだ。
それだけでなく、
「ここでこう考えるオンナっているか?」と疑問に思う箇所も散見。
「オンナとはこういうものだ」と断定的に語るのは決して私の本意ではないが、断定的に語りたくなってしまうほど、悦子が「作り物のオンナ」臭いのだ。
 
イラついている最中、偶然、TBSに「放送禁止」の扱いで、三島の肉声テープが保管されていたとのニュースを知った。
中で三島は、
「僕は油絵的に文章をみんな塗っちゃうんです。僕にはそういう欠点がある。日本的な余白がある絵は嫌い」
と語っているらしい。
 
わあ、自分でわかってんじゃないの、とも思うが、この人のことだ。
自分で「欠点」と言いつつ、実は「自慢」じゃないのか…と、大変疑わしくも思った。



ジェラシー
嫉妬に憑かれた女鬼の面
鞠子