最近、自分のキャラについて、つくづく思うことがある。
いろいろある「苦しいこと」の原因は、他ならぬ「私」。
つまり、自分を苦しめているのは、自分自身、なのである。
例えば、年と共に衰えていくあれこれにイラつくのは自分自身で、他人は何とも思っていない。
歌がうまくならないことや、思ったようにものが書けないことに消耗するのは、自分がそのことにこだわるからだ。
それこそ他人は、何とも思っていない。
老化も歌も書き物も、人によっては全く気にならない、あるいは存在しない、ある意味特殊なことだ。
だけど、「命」をかけるような事柄ならどうか。
今日、仕事帰りに『柘榴坂の仇討』を観てきた。
昨日、音楽トモAさんに、「中村吉右衛門が出てるよ」言われ、早速、映画館に行ったのである。
この映画の内容がまさしく、「自分で自分の命を食い縮める」典型だった。
主君を命がけで守る、と誓ったのに、桜田門外の変でその主君・井伊直弼の暗殺を許してしまった彦根藩士の志村金吾(中井貴一)。
時代が変わり、みんなが桜田門外の変など忘れてしまっても、彼はその誓いに13年もの長い間、縛られ続けるのである。
一方、井伊を討った水戸藩浪士・佐橋十兵衛(阿部寛)も、自分の命と引き換えに起こした暗殺だったのに、自分は死にきれず、己を責め、息を潜めて生きていた。
自身の信念と誓いと矜持。
それに縛られ、責めるのは、他ならぬ自分自身なのだ。
「そんなこと忘れちゃって、楽しく生きる」こともできるのに。
自分で自分が許せない。
どっちが幸せなのか。
信念を貫く方がはた目には美しい生き方だが、それは苦難の道、ではないだろうか。
…そんなこと、考えることがすでに、自分で自分を苦しめている、のかも、な。
ちなみに、
吉右衛門さまは、井伊直弼役。
すぐ暗殺されちゃうんで、出番としては少ない。
ただ、
志村が誓いに縛られる根元にあるのは、「井伊直弼が一人の人間として好きだから」。
少ない出番&せりふだけで、志村に命をかけさせるほどの人間性と重厚な印象を残さねばならない、難しいお役でした。