富岡幸一郎著『最後の思想 三島由紀夫と吉本隆明』に対する書評を読んだ。

評を書いたのは、文芸評論家・菊田均氏。

中で、何度も読み返したのはこの一文。

「思想と信仰は一見似ているが、吉本からすれば全く別物だ。判断を放棄しなければ、信仰は成立しない」

…そうそう、これよこれ。

貧困にあえぐ国の子どもたちを助ける。
家庭に恵まれない子を助ける。
老々介護の人たちを助ける。
ホームレスの人たちを助ける。
罪を犯した人の更生を助ける。

…そういうことに、一生懸命になっている人たちがいる。
みんな正しい。何も間違っていない。
でも私は、素直に「じゃあ私も…」と言えない。

なぜなのか。

…何となく「信仰」のニオイがするからだ。
「正しい」から、それ以外のことは「正しくない」と、一刀両断だからだ。

吉本は、「反核」運動や「反原発」運動に厳しく反発した。そこに信仰特有の欺瞞を見たからだ、と菊田は書いている。

一見、この吉本の主張は「非人間的」だと批判されそうだが、わかる、私、この吉本の言わんとすること。

かつて私の職場に、この手の活動に心血を注いでいる女性がいた。
とある政党に属していた人だ。

たとえば彼女の主張の一つに、

貧しい人たちを救いたい。
税金は裕福な層からもっととり、貧しい層は軽減すべきだ。
経営者は私腹を肥やすばかりでなく、十分な給料を労働者に払え。

…なんてのがあった。
でも彼女、「市会議員に立候補することになったので」との理由で急に退職。
それも年度変わりの超繁忙期に。
仕事は全部、中途半端にほかって、私に押し付けていった。

御大層な主張は結構だが、「やるべきことをやってから主張してくれ」、と腹が立って仕方がなかった。

原発は許せない。
沖縄の基地も許せない。
福祉にもっと金を使え。

…などという主張もされていた。

私も、地震多発国・日本に、原発はそもそも無理があると思うし、あらゆる意味でそんなものに頼らなくても大丈夫な生活を模索すべきだと思う。
沖縄の基地だって、なくなればいい、と思う。

でも現実問題として、原発や基地で生きている人もいるわけで、単純に「原発・基地=悪=即刻停止・排除」とは言う勇気は私にはない。

…なんて彼女に言おうものなら、何十倍もの反論になって返ってきそうだった。

彼女にとって、正義は信仰だったのだ。
正義以外はみんな悪。

書評を読んでいて、久しぶりに彼女のことを思い出した。

…そう言えば彼女、もともと仕事はできない人だったなあ…

…で、給料はもっと出せ、か…