学生が主体的に協働的に学ぶ授業だけではいけない。
塾講師のような教え込む授業も必要かもしれない。
デカルトは疑う。
本当にこれは正しいのかを疑う。
そこで探究の芽が出てくる。
どうしても疑いようがなければそれは真理である。
教育者はまず自分を疑って教育を探究し、生徒にも疑ってもらって多くの生徒に納得感が得られれば、その教育は真理である。
自分はこれからデカルト「省察」の解説本を手に入れるつもりだが、デカルトは神を疑ったのではと思う。完全なものを作る神に不完全な人間がどうそれを完全だと証明出来得るのか?
人間は始め空っぽなのか?それともDNAを通して完全なものをひとつひとつ呼び覚ましているのか?と言う問いが出る。
デカルトはどうも後者らしい。覚醒していく考えを持っている。
ここからは空想になるが、人間は不完全なので、教わらないと覚醒しない。
ある程度詰め込まなければ、ある事柄とある事柄が結びつかないで、発展的覚醒は見込めない。
人間は忘れる能力も持ってるが、完全に身体から消えるわけでなく、電気信号が繋がらないだけ。
人間は知識を詰め込こめば詰め込むほど、結びつきにより発展的思考ができるようになるのでは?
ただ一人で詰め込むと、協働社会では共通理解が得られないつまりメタ認知が得られないから、集合して学ぶ。
集団教育にも意味がある。
心と身体の二元論は、最近では違うではないかとされているが、学習指導要領は「方法序説」に近いものがある。
まず簡単と思われるものから問いを解決していき、次第に難度を上げて行く。
公式と言われるものを理解してから本題の証明に取り掛かるのは演繹法である。
ちょっと自分でも何を言ってるか分からない・・・
デカルトの「省察」を早く読みたい。
とりあえず、教育と近世哲学が親和性高そうなので、言ってみた。
