何か考えてることがまとまってないまま見切り発車。
講談社現代新書:藤田正勝著:「日本哲学入門」を読んでた。
主観と客観のところで躓いた・・・
科学はある事象を唱えたら、他の人も複数再現できれば、それは絶対的なモノになる。
人間のものの見え方は、同じものを見ていても、立場や経験や視力などで見え方が異なる。
人間の主観はその人の見え方や考え方をストレートに表している。
が、客観は中立的立場や科学法則に当てはめるなどして、自分の好き嫌いを排除しようと試みる。
しかし、好きなら好意的な材料を集めてしまうし、嫌いなら陥れようと言う思惑で科学的根拠を探し出す。
客観って存在するのかなって。
客観は主観をオブラートに包んでやんわりと主張しているのでは?と。
ならば主観で物申して、反論を素直に受け止めた方が良いのか?
でも日本人は論破というのが好きで、意見を180°覆すと悪いイメージがある。
西洋のテーゼとアンチテーゼがぶつかることによってジンテーゼになり、さらにアウフヘーベンというような、対立することも統合して、双方に利益をもたらす画期的アイデアをもたらすような考え方は浸透してない。
あくまで多数決の原理で、少数意見は無視されるか、多数意見に乗っかる傾向にある気がする。
朝日新書:東浩紀著:「訂正する力」も申し訳ないが、中途半端に読んでます。
過去を書き換える能力が重要と説いている。
歴史修正主義みたいな考えだが、自分の考え方を過去から変えることを主要に話してる。
歴史的出来事も空襲で証拠が焼けたり、誰かが都合が悪く闇に葬って、解明ができないことが多々ある。
それでも歴史的発見でイメージががらりと変わる。
科学も多数の人が再現できれば立証される。
でも人の考えはひとりでいくら良いこと言っても、多数の反対意見に折られる。
でも様々な考えが共存しても、それは普通であると思う。
当事者以外はみな憶測であり、当事者すらショックで記憶が曖昧になることがあったり、記録してなく記憶が無いから。
だから物的証拠と状況証拠で真実を洗い出そうとする。
ただ憶測を言うにも知らないことが多すぎると、客観的意見のような主観的回答を言ってしまう。
やはり当事者やその関係者以外知ってることは乏しいので、憶測は控えた方が良いのか?
それだと当事者の利益誘導が行われるので、例えば記者会見で質疑応答もすべきである。
とんちんかんな質問でも、理解を得たいなら伝える努力をする。
でも、鋭い反証を頂いたときに、訂正することができるのか?
自分の主観は、
アベノミクス:嫌い:株を日銀に買い支えてもらって儲けた人がいるから。:政府の負債が積もって政府暴走しだしてる:江戸時代末期の幕府のよう:結論・失敗
リニア:嫌い:静岡県民馬鹿にされたから:調べればとんでもない電力量とメンテが必要:都会民は環境負荷について無頓着:都会民は自分たちが便利になれば良いと言う自己中心的:結論・好きにすれば
紅麹:麹には罪は無い:紅麹も毒性のない株を使用:製造過程で何か混入:でも患者は腎疾患以外にも疾患あり:他の要因もありそう:結論・紅麹にも罪は無い
大谷と水原:大谷好きでは無い:大谷ハラスメント:メディアの異常なメジャーリーグびいき:水原どこまで悪に関してどこまで有能なの?:大谷の税理士・会計士・顧問銀行のセキュリティずさん:大谷高校時代からメジャーにこだわってるけど英語しゃべれないから税理士たちとコミュニケーションとれないも異常状態:結論・大谷は被害者でも、水原はセキュリティ突破どうやったのか気になる
自分はかなり少数派に属しているが、多数派の論理を聞いても納得がいってない。
だから、まだこれらは訂正しない。
ま、内緒にしてれば平穏な人だけど、これ言うとネット過激派になるのかな?
識者の言うことが100%正しいとも思わないので、識者同士でも意見違う場合あるので。
結局、好き嫌いが人を動かすのかなって。
選挙で当選するのも、優秀さではなくて、しゃべり方が熱いとか柔和とか、政党や肩書きとか、単純に見た目とかで決まるのかなって。一番はみんなが利益を得ることを言う人ではなく、自分に利益がある人を選ぶと思うけど。
主観と客観で躓いたが、本音と建前とも言える。
自分は本音を言いすぎるかもしれない。
建前だけ言っていれば、平和な人に見られるのに。
好感度がある人の方が説得力があるから。
これも根拠は無い・・・
本当の客観的意見とはどう言う考え方に基づいた意見だろうってなっただけの話。
人は客観的意見を言えるのかって疑問。