英雄たちの選択「三河一向一揆」を見ました。
時代背景は、
徳川家康(このときまだ松平姓)は1560年桶狭間の戦い後、織田と争うも今川の援軍が来ない。
ならば織田と和睦して今川と戦おうってなった。
そして西三河を平定したが、1563年本證寺や本宗寺など浄土真宗(本願寺系)の4つの寺と争った。
寺の持つ不入の権(租税免除・警察不介入)を徳川家臣が破って寺の兵糧米を採り上げたのが発端。
浄土真宗の信徒の武装蜂起を一向一揆と言うが、信徒は西三河の半数近くいた。
松平家がこれら信徒から年貢を取れず、兵の動員もできなかったのでは無いかと思われる。
今川と戦うには心許ないこと。
有力家臣の中に一向宗もいる。
一向宗もまた寺を城郭伽藍にして武装しており、信徒も命を投げ打つ覚悟で戦う。
そして、三河一向一揆が始まってしまったが、一応は松平軍が勝利した。
残った一向宗をどう裁くかが難問でした。
家康は許した。
すると一向宗は三河から離散していった。
その機を見計らって、一向宗の中核の4つの寺院を破壊し、三河で一向宗の活動をさせないようにした。
【感想】
宗教対君主の争いは人類史上何度もあって、国が乱れれば宗教勢力も強くなるので、ヨーロッパではローマ教皇が皇帝に謝罪させるなんてこともあった。
ローマ帝国は戦争で版図を拡げたが、支配した地域に改宗を求めず取り込んでいった寛容政策をとっていた。
日本では三河一向一揆の後に織田信長が一向宗と全面戦争してるが、やはり一向宗が特権階級で強力な武装勢力になっているので、国の統治がままならない側面があったと思う。
楽市楽座は寺院の特権を無視するものだから、争いは続いたのではないかと。
ただ君主が戦争ばかりしてると、人々は宗教の信仰を強め、君主から乖離していくのでは無いかと思う。
ただ巨大ネットワークを持つ本願寺(浄土真宗)内にも宗派があり、特権のために戦う僧もいれば、中立的立場を脅かす大名と戦う僧もいる。
でも本質は信徒は戦いが嫌で信仰している。
一向一揆はそこに矛盾点を抱える。
信徒の租税回避が大名との亀裂を生んだように思える。
徴兵制は?となると分からなくなる。
徴兵が嫌で寺に駆け込む姿が思い浮かぶ。
大名にとっては兵力動員できない。
大名家が滅んでも、寺院は残る。
大名への忠誠は薄らぐ。
大名の悩みの種ではあったかもしれない。