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自己肯定感という言葉が社会に浸透してしばらくたちますね。まだブーム?もう古いのかな?



言葉って単語として命を持つと使いやすいし広まりやすい反面、その言葉に固執してしまったり発信された意味を正確に受け取れなかったり、といった厄介な面も出てきます。

 

 

わたしも昔、「自己肯定感が低いことは悪いことなんだ!」と思って、自己肯定感を上げようといろいろなことにトライしてみた時期がありました。

 

 

そしてある日、思いました。

 

 

「自己肯定感ってどこまで上げればいいの?」と。

 

 

「いつまで頑張ればいいの?」と。

 

 

「自分らしく振る舞うってどれだ?」と。

 

 

そもそもの、「低いこと」=「悪いこと」っていうスタートからして間違ってたんですけどね。

 

 

低いのは低いだけで、悪かない。否定は否定で存在してもいい。ただ、しんどいかもしれんけど。

 

 

そういう、さまざまなジャッジをもれなく自動的にやってくれてしまうマインドだけを使って世界を体験していると、すごく振り回されるしとても疲れる。

 

 

このブログでよく出てくる、マインドとは別の「本当の自分」とか「愛」とか「源」とかいわれる意識とのつながりが深くなるとわかってくるんですけど、本来のわたしたちには否定が存在しないので、肯定も存在しないんです。

 

 

どっちかっていったら、体験できる世界が「在る」時点で肯定しか存在しない感じかな。

 

 

とにかく、否定が存在しないから、肯定が低いとか高いとか強いとか弱いとかがないんですよ。本当は。

 

 

ただ、愛の存在がある。

 

 

 

 

原始時代のご先祖たちを想像してみてください。(唐突にはじまる先日見たNHKの番組に影響されまくった妄想劇場)

 

 

「比較」のはじまりって、想像だけど、「自分に良い影響を与えるものはどっちか?」だったと思うんです。

 

 

こっちの木の実とあっちの木の実とどっちがおいしいか?とか、どのマンモスが一番大きいか?とか。

 

 

それがだんだん複雑になって、比較の中に自分や他人を入れはじめた。

 

 

自分に良い影響を与えたくてはじめた「比較」という作業が、いつの間にか自分をぶっ叩く道具に成り代わってるんですよね。

 

 

ドMもいいとこだよね~。(先日見たNHKの番組に影響されまくった妄想劇場~終~)

 


 

マインドは「個」を体験できるようにできているので、必然的に「不足」の意識が内蔵されてしまいます。(分離してないと個でいられないから)

 

 

なので、マインドを使わずして生きることができないこの世界で、本当の自分とか関係なく生きていたら、「比較」に振り回されたりするのは仕方ないっちゃ仕方ない。(その辺をさらに詳しく>>>アガシャに聞いたこの世の仕組み



でも、マインドの特徴や性能を何も知らないでただ振り回されるのと、知ってて傍観できるのとでは生きやすさが全然ちがいます。

 

 

 

それで話は戻って自己肯定感のことですけど、いろいろ体験してわたしが思う自己肯定感が十分にある状態というのは、「高いとか低いとかどうでもいいな」って、自己肯定感にすら振り回されない状態です。

 

 

 

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