こども大家の子育てブログ

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ダウン症をもって生まれた次男スズの将来をなんとかしたいと思い、パリピの長男レンと一緒に不動産賃貸業にチャレンジしている自営プログラマーのブログです。楽待でコラムを書いております。
なお読書感想文はネタバレが満載です。ご注意下さい。

 どんな内容かまったく知らずに読んだが、なんと全く興味がない恋愛小説だった。しかしやたら哲学的で、部分的にエロくてグロい、メタフィクションみたいな説明的なところもあって、複雑で味わい深い文学作品だった。

 哲学的と言ったものの、意外にも思索の道程をハンズオンで導いてくれる「親切さ」みたいなのもあって、マジの哲学とくらべると納得しやすい。文体が硬いわりに、難しいところは丁寧に教えてくれるツンデレっぽいギャップもあり。

 

 キリスト教と共産主義という対局を両方経験しているせいか、作者は「超越的な真理(ジンテーゼ)」に近づきたいという、やや中二病的な素朴な憧れを抱いているように感じる。

 

 そうして導き出された結論は、東洋人である私にとってはおおむね違和感がない。というか既視感がある。もっと言うと「べつにフツー」なものが多い。この点はすごくおもしろい。

 

《天国》では人間はまだ人間でなかったという考えに私は導かれる。より正確にいえば、人間はまだ人間の道に投げ出されていなかった。われ われはもうずっと以前から投げ出されていて、直線をなして動く時間の虚空を飛んでいるのである。

<中略>

それだからこそ、動物を機械動物に変え、雌牛を自動牛乳生産機に変えるのはひどく危険なのである。そうすることによって人間は、《天国》と結んだ糸を切ることになり、時間という虚空を飛ぶ間に人間を引きとめることも、慰めることもできなくなるのである。

 

 古典的なキリスト教の価値観を脱皮したいとするなら、アニミズムや東洋思想に近づくのは当然かもしれない。

 私はクンデラの思索は、ほとんど仏教的といっていいと思う。

 

 そんなにペラい本でもないし、わりと大脳に負担がかかる内容であるにもかかわらず、あっさり3日くらいで読めてしまった。

 もちろんおもしろかったというのもあるけれど、きっと千野 栄一の翻訳が良かったんじゃないかと思う。

 第170回芥川賞受賞作。

 私はあんまりイマドキの文学に興味ないのだが、本作では生成AIが駆使されているとのことで、システム屋としての好奇心をくすぐられた。

 

 なるほど、これはおもしろい。

 なんともいえない、アウターゾーン的な雰囲気があって、非常に好みだ。

 

 生成AIを使っているからなのか、それとも昨今の文学はこんな感じなのかは分からないのだが、文体が非常にきらびやかで、「手数が多い」と感じる。

 1行読んだときに、大量の情報が頭に入ってくるので、けっこう忙しい。

 

 本作のレビューを見ると、SF面に注目する人も多い印象だが、私はその点よりも「思想・哲学」に目が向かう。

 

 タイトルにもなっている「東京都同情塔」は、タワー状の巨大建造物である。 

 犯罪者を不遇な環境で生まれ育った「同情されるべき人たち」として、彼らが快適に暮らせて、かつ「非」犯罪者との分離を実現するために作られた。

 

 犯罪を犯す人は、確かに境遇が恵まれていなかったり、弱かったりすると思う。

 そして、そのような「恵まれてなさ」や「弱さ」を、その人の責任にしていいのだろうか、という疑問は私の中にもある。

 これは煎じ詰めると「自由意志は本当に存在するのか」という問いと、ほとんど同じかもしれない。

 哲学者の中では、たとえばスピノザがこれを指摘している。

 

 また、国家が持つ働きの中には「国民を標準化してコントロールしやすくする」というのがあると思う。

 この点を指摘したのはミシェル・フーコーだ。

 

 この作品の中には、そうした近現代の哲学がかみ砕かれて、ちりばめられている。

 だいたいの人が哲学とか興味ないと思うが、私たちの考えていることや常識は、そうした偉人たちの見いだした疑問なくして成り立たないことをあらためて認識した。

 

 東京都同情塔には多くの犯罪者が収容されていくが、そこから出てくる人はいない。

 この点は、SNSなどを通じた現代社会の知的な分断を、皮肉っているのかもしれない。

 哲学的な深い議論をする題材として、とてもおもしろいと思う。

 

 全体を通して、カフカの「城」に似ていると感じた。

 

 「オレいっかい死んでみたいんよね~」

 

 先日私の古い友人が、がんで亡くなった。

 そのことをきっかけに、「死んだらどうなるのか」について議論していたときの、長男レン(11)の一言。

 親としてはドキっとさせられるが、要するに彼が言いたかったのは「一回死んでみて、どうなるのか自分で確認したい」ということであった。

 

 「生き物が死んだら、なにも残らんよ。パパはそう思うよ、だってさ、死んだやつが全部幽霊とかになったら、世の中めちゃくちゃやん?今まで何人死んだと思っとるん?計算あわんやろ。大島てる大変なことになるやろ。」

 

 生き物が死んで焼いたら、灰とガスになる。

 あの世や天国や地獄や幽霊や転生などというのは、死のむこうがわをでっちあげて、なんとなく安心したい心理の投影だ。

 記憶や怨念や、自我でさえ、全部この頭蓋骨に納まっている。脳の一部を損傷することで、それらが失われることからも明かだ。

 だからこの頭蓋骨の中身を燃やしてしまったら全部なくなる、当たり前のことだと・・現在47歳の私の結論はこんな感じである。

 

 「でもさ、この世界は仮想現実かもしれんやん?そしたら、死んだら現実世界に引き戻されるだけかもやん?」

 

 仮想現実・・YouTubeの影響ってすごい。

 ともかく、レンは「死んだらすべてが無くなる」と思いたくないようだ。

 

 

 「パパが思うに、肉体も精神もぜんぶ無くなる。けど、たとえばパパの友達はパパに影響を与えているわけやろ?そして今その話をレンとしている。つまり彼の影響は、日を追う毎に薄まってはいくけれども、基本的に永久に続くのだとパパは思うよ。」

 

 がんで亡くなった友人の影響は、2人の娘さんを通し、私や他の友人たちを通し、永久に残り続ける。

 キリストや釈迦のような、ある種の天才たちの影響が今でもばっちり残っているのと同じだ。

 我々のようなフツーの人の影響は非常に小さいが、決してゼロにはならない。


 「だからね、パパは自分が死んだ後にどんな影響をおよぼすか、自分なりに考えて行動するようにしている。できればちょっとでもいいから、世の中が良くなるように行動したい。これこそが本当の意味で、永遠の生と言えると思う。」

 

 死後の世界は、結局は「確認のしようがないことに対して、最も楽観的な仮定を採用したい気持ち」の現れと思う。

 世界のどこにでも宗教が存在し、しかもそれぞれ言っていることが異なる理由も、これで説明できる。

 だからこそ、私たちは一回きりの「私」をなんとかして満足いく物語に仕立てたいと思うのである。

 

 子どもとこんな話ができるようになったことは本当にありがたいと思っていたところ、レンが最後に一言。

 

 「でもそのうち人類滅亡するやん?そしたら意味ないやん?」

 

 いやいや、それを言っちゃあおしめえよ。